※これは書きかけの下書きです。今後加筆修正します。
現場となった「朝霧歩道橋」
事故の現場となったのは、タイトル通り「明石市の歩道橋」である。より詳しく言えば兵庫県明石市の、JR山陽線・朝霧駅からほど近い「朝霧歩道橋」だ。
この歩道橋は、同市の大倉海岸と朝霧駅を結ぶ形になっていた。歩道橋の北に駅があり、南側に海岸があるという位置関係だ。
事故当時は、この歩道橋の南側にある大蔵海岸で「第32回明石市民夏まつり」が開催された。10万人規模のお祭りである。
で、お祭りの参加者のうち特に電車でやってきた人たちは、朝霧駅から歩道橋を通って海岸へ行き、花火を見物したら今度は海岸から歩道橋を通って駅へ戻る……という動線で移動することになる。
往路もしくは復路で、もしも大勢が一気にこのような動線で動けば歩道橋が大混雑するのは自明の理である。あるいは、会場へ行こうとする人々と、駅へ戻ろうとする人々が歩道橋の上で衝突した場合も同様だ。この「自明の理」が現実になってしまったというのがこの事故である。
朝霧歩道橋の難点
事故現場となった歩道橋について、もう少し理解を深めておこう。
この歩道橋はJR山陽本線・山陽電鉄線の二本の鉄道と、国道2号線・同じく28号線・そして市道48号線の三本の道路をまたぐ形で設置されていた。
全長は103.7メートル、幅8.4メートル。このうち人が歩ける部分の幅は6メートルである。朝霧駅から来た人はまず階段を上り、直角に右折して6メートルの通路を渡って北から南へ向かうことになる。
で、渡った先には約75平方メートルの踊り場があり、そこでまたほぼ直角に右折。今度は幅3メートルの階段48段を下りて地上に到着し、歩道を進んで海岸へ向かうという流れになる。
この事故で問題になるのは、上記のうち「幅6メートルの通路」と「約75平方メートルの踊り場」と「幅3メートルの階段」である。
事故発生のメカニズムという観点から考えた場合、この橋には次のような二つの構造上の問題点があった。
【問題点①ボトルネック構造】
歩道橋南端の「約75平方メートルの踊り場」を境に、歩道橋の通路は急に狭くなる。
何せ、それまで通路の幅が6メートルだったのが、踊り場を抜けると幅3メートルの階段を下りることになるのだ。歩行者にとっては「海岸に向かって進むとだんだん狭くなる」という構造だったわけだ。
いわゆるボトルネック構造である。
【問題点②半トンネル構造】
橋の通路には高さ約3メートルのアーケード状の屋根が設置されていた。またポリカーボネイト製の壁もついており、これによって利用者は横風から守られるし、橋上からの落下物なども防げるという造りになっていた。
つまり、朝霧歩道橋はトンネル状の形をしていたわけである。
実際には、屋根に大きな開口部があるので完全なトンネルではないし、壁の板も透明なので視界は利く。純粋なトンネル構造ではなく、「半」トンネル構造とでも呼べるだろうか。よって普通に利用する分には、決して狭苦しさを感じさせるものではなかった。
しかし、ここでひとたび大混雑が起きれば、中にいる人は息苦しくもなる。また、壁と屋根の存在によって半ば閉鎖空間と化していたため、何かあっても外部に向かって救助要請が届きにくいという難点もあったと言えるだろう。
……と、以上の内容をざっくり踏まえて、事故発生当時の状況を時系列で辿っていこう。
念のためお断りしておくと、以下では「半トンネル構造の歩道橋で少しずつ人間がぎゅうぎゅう詰めになって大惨事に至る」経緯を辿っていくことになる。
いたずらに凄惨な書き方をするつもりはないが、もしも読んでいて途中で息苦しく感じたら――あるいはそうなる恐れがある方は――さらっと読み流す程度にした方がいいと思う。
実は筆者は、最初に資料を読んだ時に動悸が激しくなってちょっと大変だった。
事故発生の経緯
◆18:00頃
この頃、朝霧歩道橋はまだ空いていた。もっとも、朝霧駅のホームはすでに大混雑で、ともすれば通過列車に巻き込まれてしまいそうな状況だったとか。
それでも、改札を出しまえば混雑と言えるほどの状態ではなく、歩道橋を歩いていてもたまに肩が触れ合う程度だったという(筆者としては、肩が触れ合うだけでもなかなかの混雑という気がするが。どこもかしこもスカスカの山形県に住んでいるからか?)。
◆18:15
歩道橋が混雑し始めた。朝霧駅方面から、花火会場に向かう人々が入ってきたのだ。
混雑したのは、大勢が流入したからというのもあるが、まず大きな理由のひとつは上述のボトルネック構造のためだった。6メートルの通路を抜けると、下りる階段の幅がいきなり半分の3メートルになってしまうという造りのため、渋滞が起きたのだ。
またもうひとつ、階段を下り切ったところの歩道に夜店が軒を連ねていたのも問題だった。橋を下りた人たちがそこで立ち止まるものだから、輪をかけて渋滞がひどくなったのだ。
それでもまだ、歩道橋は自由に歩ける状況だった。
ちなみにこの頃、周辺を警備していた警備会社の担当者は、「これはヤバイんじゃないか」と入場制限の必要を感じて警備本部に連絡している。しかし返事はこうだった。
「警察の許可がないと規制はできないから」
というわけで、この警備会社の担当者は入場制限の措置を取ることを諦めた。
◆18:30頃
朝霧駅のホームは大混雑の状態だった。
「皆さん、花火会場へはあちらの歩道橋をご利用ください。人混みは少しずつ動いているので、通れますよ」
警備員は群集にそうアナウンスする。人々は当然これを信じるので、歩道橋の中は急激に混雑の度合いが増していった。もしかすると、当時会場を訪れたカップルなどはこんな会話をしていたかも知れない。
「なんかすごく混雑してるけど、迂回路とかないの?」
「あることはあるんだけど、ちょっと分かりにくいんだよね。歩道橋を渡っていった方が分かりやすいよ」
これは想像上の会話だが、そういう事情もあって、警備員は迂回路を案内しなかったようだ。
しかし、前述した歩道橋のボトルネック部分は全く改善されていないので、相変わらず出口がふさがった状態である。
だがそれでも、この時はまだ、歩道橋は自由に歩くことができた。と言っても、のちのぎゅうぎゅう詰めの状態からみれば「比較的」自由が利いたという程度である。
◆18:50~19:10頃
歩道橋の混雑はますますひどくなる。先ほどは警察から入場制限の許可をもらうことを躊躇した警備会社も、さすがにこれはヤバいと気付いて明石署に連絡した。
「朝霧駅のあたりで、花火会場へ向かう人を制限できませんか? 群集を一気に受け入れるのではなく、一定の人数ごとに分けて、断続的に入場させるんです」
え、本当にそんなヤバイ状況なの? というわけで19時頃、連絡を受けた明石署から二名の署員が状況確認のため派遣されてきた。
署員「ああ、確かにすごい人混みですね。でも歩道橋では、人はちゃんと流れてるんですよね?」
警備会社の社員「そうなんです。ですから入場制限しませんか」
署員「うーん、だけどそれをやっちゃうと、今度は朝霧駅が混雑します。駅のホームから人があふれるかも知れないのでそれも危険ですよね」
警備会社の社員「じゃあ規制しないんですか?」
署員「とにかく人は流れているので、様子を見ましょう」
後に発生する大惨事のことを知っている我々からすれば、何を悠長なことを言ってるんだ! と感じるところだ。だがもともと、明石署では雑踏整理に重きを置いていなかった。彼らが警戒していたのは群集よりも暴走族やケンカだったのである。
また、当時は「歩道橋の人数が一定人数を超えたら進入規制を発動する」という決まり事もあったらしい。歩道橋の人々をどうやって数えるのか、またそれならどうして大惨事になる前に進入規制は発動されなかったのか、などの疑問はあるが、なんであれこの時は結局、進入規制は行われなかった。相変わらず、人々は朝霧駅から歩道橋へとどんどん流れ込んでいった。
◆19:25~35頃
やっぱりどうやって数えたのかよく分からないのだが、この頃には歩道橋の人数が1,800人を突破した。これは、進入規制を発動する想定人数を超える数字だったらしい。
「隊長! 朝霧駅の方は非常に混んでいます。危険な状態です」
警備会社の隊長は、19:25頃にこのような連絡を受けた。そこで隊長は明石警察の「地域官」なる人に相談したが、この地域官もやっぱり「人は自然に流れているので、このままいきましょう」と判断。またしても、進入規制は見送られてしまった。
だがこの時、例のボトルネック部分を中心として、歩道橋の南側では大変なことになっていた。自然な流れどころか、歩道橋の中央あたりでは渋滞が発生していたのだ。ボトルネックがあり、階段の下は夜店と、その客と、花火の見物客でいっぱい。これでは進めるわけがない。
歩道橋内部は、人々の肩が触れ合うくらい密集し始め、これによる酸欠・気温上昇のダブルパンチで不快指数が増していった。
それでもこの時、この渋滞をどうにかしようという話にならなかったのは、人の流れが完全にストップしていたわけではないからだ。
◆19:45頃
歩道橋の中央から南の方は、すでに超満員の電車のような状態だった。
そこで、19:45に花火の打ち上げが始まったからたまらない。かろうじて動いていた人々も、一発打ち上がるたびに足を止めて花火に見入るものだから進み幅はだんだん狭くなり、橋の混雑はひどくなる一方だった。
特に、先述の通り、下りる階段の手前にある踊り場のあたりは花火を見るには絶好のポジションだった。いわばそこは展望デッキのような場所で、昼間であれば美しい大蔵海岸が一望できた。
それに加えて、何度も書くがボトルネック構造である。南の階段は歩道橋の半分ほどの幅しかないので、駅側(橋の北側)から流入する人々に比べて、海岸側(南の階段)から海岸へ下りていく人々の数は圧倒的に少ない。で、階段を下りてもそこは夜店が並んでおり人混みでごった返しているのだ。
群集事故の恐ろしい点のひとつに、「群集の後ろにいる者は、前方の異常な状態に気付かない」というものがある。まだこの時点で事故は起きていなかったが、この歩道橋でも、前方の様子が分からないため、駅側からこう叫ぶ者もいたという。
「花火が終わってしまうやろ。進め」
これに同調する者もいたのだろう、駅側からの圧力は増していった。
そしていよいよ、人の流れが完全にストップしてしまう。
「隊長、歩道橋の人の流れが止まりました」
警備員が隊長へ連絡した。これを受けて、隊長ももう一度明石署の警察官に連絡を入れる。
「もう、このままでは危険です。通行を制限しましょう」
しかしこれも答えはノー。
「通行制限は花火大会が終わった後でいいでしょう」
明石署では、混雑がひどくなるのは帰り道なので、通行制限は花火大会が終わった後でいいと考えていたようだ。
しかし、このあたりから、既に歩道橋の人々は身の危険を感じ始めていた。大人たちの中には、息苦しくなって天を仰ぎ喘いでいた人もいたという。また、ベビーカーを押していた人も、人々の圧力によってベビーカーがきしみ始めたため、急いで畳んで子供を抱きかかえたり、高く掲げたりしている。
大人はともかく、力の弱い子供にとっては非常に危険な状況だった。ある親は、手すりと壁の間に子供を入れて避難させ、なんとか群集の圧力から逃れさせようと試みている。また、そこに自ら入り込む大人もいた。
しかし、そこも完全な安全地帯ではなかった。その場所にまで圧力が加わり、親たちは壁のボードに手をついて空間を作り、子供を必死に守らなければならなかった。
人々に挟まれた子供は泣きわめき、怒号や、助けを求める声が歩道橋の中に響き渡る――。後に、この時の状況について、端的に「地獄のようだった」と証言する人もいる。
この頃、ボトルネック部分の群集の密度は13人/m²以上に達していたと考えられている。
変な言い方になるが、この時に転倒事故が起きていたら、この群集地獄に押し込められた人々はもっと早く解放されていたかも知れない。しかし人々は、この状態のままでさらに一時間ほど耐えなければならないのだった。しかも「この状態で」とは言っても、状況はさらに悪化していくのである。
◆20:03
歩道橋の状況に危険を感じた警備員が、また警備会社の隊長に連絡を入れた。
「陸橋はもう、人が動かない状態です。後から入ってくる人をストップさせて下さい」
で、隊長は明石署の地域官に相談する。
「歩道橋への人の流入を止めましょうか」
これに対して、地域官は「いま現場を見に行かせている」「情報を取っている」と返事をしただけで、 結局ここでもまた、入場規制の許可は下りなかった。もはやお約束である。
◆20:21頃
花火大会が始まって30分が経過したあたりで、いよいよ歩道橋やその周辺からは「身動きができない」と異常事態を訴える110番通報が相次いで寄せられた。
しかし通信の混雑と電波状況の悪さなどから、救急要請の電話が通じないことも多かったという。
花火は8時半に終了するものだから、「花火が終わってしまうやろ、早く進め」などと叫ぶ人もいた。歩道橋の状況は一向に改善せず、群集の圧力は増すばかりだ。
しかも、ここでとどめの一撃とでも呼ぶべき事態が発生した。花火が終わる10分前くらいになると、多くの人々がもと来た朝霧駅へ戻るために一斉に北の方角へ動き始めたのだ。
つまり、それまでは朝霧駅側(北側)から群集の圧力がかかっていたところに、今度は逆方向の海岸側(南側)からも圧力がかかり始めたのである。正反対の方向からの人の流れが、歩道橋上で衝突してしまったのだ。
弥彦神社事故やラブパレード事故のパターンである。目的地へ行こうとする人々と、目的を果たして帰ろうとする人々がかち合ったわけだ。
押している方はいいかも知れないが、真ん中で板挟みになっている人々はたまったものではない。両方向からの押し合いが始まり、歩道橋の上の人々はもはや身動きできず、にっちもさっちもいかなくなった。
◆20:28~
花火大会が始まって45分以上が経過する頃には、携帯電話からの119番通報が相次いだ。ただ、この時はまだ怪我人が出たという話はなく、混雑のせいで体調を崩している人がいるという内容がほとんどだったという。
そこで、明石市消防本部の通信指令室から第5救急隊に救急出動の指令が出されたが、この指令もピントがずれていた。「朝霧駅ロータリーへ救急出動せよ」というものだったのだ。この時は相変わらず電波状況が悪く、通報を受けた時に具体的な場所をうまく聞き取れなかったのが原因だったようだ。
で、救急隊は朝霧駅へ出動したものの、怪我人はどこにも見当たらなかった。それもそのはず、混雑しているのは駅ロータリーなどではなくその上の歩道橋だったのだ。
しかし想像するだに恐ろしい話である。救急隊が「怪我人はどこ?」とキョロキョロしている間に、その頭の上の歩道橋では大勢の人々がぎゅうぎゅう詰めになっていたのだ。
この時、歩道橋には約6,000人が閉じ込められていたと見られている。
ちなみに朝霧歩道橋の交通量がピークに達するのは7・8月で、その時期には一日で7,200名が通過することが想定されていた。この、ピーク時の一日の交通量に近い人数が、当時の歩道橋ではひしめき合っていたのである。
◆20:30頃
ようやく、約3,000発の花火の打ち上げが終了して、歩道橋の南端で花火を見ていた人たちも動き出した。
このあたりの、人々の温度差もちょっとよく分からないところがある。この時、歩道橋から呑気に花火見物をしていた人たちは、自分たちの背後で危険な大混雑が起きていることに気付いていなかったのだろうか? どんな気分で花火を見物し、「さて帰るか」と反対に歩き出したのだろう。
一方の歩道橋内は、相変わらず一平方メートルに13人以上が押し込められる異常な超過密状態が続いていた。
「戻れ!」
「子どもが息できない」
子供の泣き声や怒鳴り声が飛び交い、中には失神する人や、体が宙に浮いてしまう人もいた。南階段の下には警官がいるのだが、歩道橋の半透明の壁を叩いて助けを求めても気付かれない。
どうも全体像を眺めてみると、警備会社の警備員たちはかなり早いうちから歩道橋の異常な状態に気付いていたが、明石警察署の方は一貫して関与を避け続けていたようだ。この頃、朝霧駅にいた警備員の一人は歩道橋への人の進入を阻止しようと試みている。しかしままならず、駅前にいた五名の警察官にこう頼んだ。
「歩道橋が大変なことになっている。子どもが窒息しそうになっているから何とかしてくれ。助けてあげてほしい」
しかしこれは無視されたという。
ともあれ花火が終わったこともあり、警備会社もようやく明石署から許可を得て、駅から歩道橋へ入ろうとする人たちの規制を始めた。しかし時既に遅し。ちょっと規制したくらいでは止められないほどの大混雑だった。中には、
「通行規制? ふざけるな! もたもたしてたら露店が閉まる」
などという罵声を浴びせる輩もいたとか。それもこれも、警察官の手助けがなかったせいだった。
ところで、歩道橋ですし詰めになっていた人々も手をこまねいていたわけではない。やがて、自分たちで何とかしようとする動きも出始めた。
「駅方向へ戻って下さい!」
まず、このように駅から来た人たちへの呼びかけが行われた。また、
「あかん。みんな戻れ!」
という叫びに合わせて、駅方向(歩道橋の北側)と海岸方向(歩道橋の南側)のそれぞれの方向に向けて、大勢が掛け声を上げている。
「戻れ! 戻れ!」
このコールを聞いて、実際に引き返す人もいたという。しかし、既に超過密状態になっていたところでは、目立った効果はなかったようだ。
現場にいた人々は、当時の状況をこう回想する。
「『何をしているんか』『前へ進まんか』という声がした」
「何度も押されて息ができなくなり、足が宙に浮いて意識がなくなった」
「つま先立ちから片足立ちになり、さらには両足が浮くようになって、失神する人もいた」
そして惨劇が起きる。
◆20:30~20:50
惨劇の発生
人々が転倒したタイミングについては、多くの資料が20:40~20:50の間だったとしている。ただ、中には20:30頃に既に発生していたとするものもあり、当研究室ではどっちも採用して20:30~20:50ということにしておきたい。
この歩道橋での群集の転倒は、一か所で一気に起きたのではなく、時間を空けて二か所以上の場所で発生したらしい。またここまでの経緯を見ても分かる通り、現場は大混乱だったので、いずれにせよ、それぞれの転倒が何時何分に発生したかを正確に記憶している人は誰もいなかっただろう。
さてこの時点で、朝霧歩道橋では約6,400名がぎゅうぎゅう詰めの状態になっていた。この状態だけでも既に相当ヤバかったわけだが、本物の惨劇の予兆はこの時訪れた。密集した人々に、どこからともなくジワッとした波のような圧力がかかったのである。
これは専門用語で群集波動現象という。この現象の詳細については後述するが、これは簡単に言えば群集がかなりの高密度状態になった時に発生する現象で、個人の意志に関係なく群集が東西南北に「揺れ動く」のだ。個人の意志とは無関係なのだから物理現象と言ってもいいのかも知れないが、人間の群集の中でのみ発生するものなので、純粋に物理現象と呼ぶには少し違和感がある。そんな現象である。
ともあれ、この波の「揺れ動き」は四方八方から発生して、これで圧迫されたことで失神した人もいた。また身長の低い者は圧迫され、背が高い者はつま先立ちや片足立ち、あるいは浮き上がり気味になり、斜めになりながら耐えている状態になる。何人もの人の体重が加算されたことで、一メートル幅あたり約400キログラムの力がかかっていたと考えられている。
そして事故が発生する。この「揺れ動き」によって、人々のバランスが崩れて転倒が起きたのだ。
ここで素朴な疑問として「なんでぎゅうぎゅう詰めの密集状態なのに、転倒するほどのスペースができるの?」と感じる人もいるかも知れない。実は筆者もずっとこの点が疑問だったのだが、どうも群集波動現象による揺れ動きで隙間ができてしまうらしいのだ。このあたりの理屈は最近までほとんど説明されていなかったのだが、2022年に韓国で起きた梨泰院での事故によって、ようやく詳しく解説されるようになった。
なんにしても、6,400名が押し込まれたぎゅうぎゅう詰めの空間とか、その人々が一斉に東西南北に揺れ動く群集波動現象とか、素人には俄かに想像がつかない話である。
とにかく、超過密状態の間は、それはそれでバランスが取れていた。しかし、群集波動現象によるこのような転倒が発生したことでバランスが崩れ、いわば「転倒の連鎖」が起きてしまった。
両足が浮き上がるほどの超過密状態のなかで支えあっていた群集のもたれあいが崩れて誰かが倒れると、そこに隙間ができるので、その空隙に向かってさらに周囲の人間が吸い込まれるように次々に四方八方から折り重なって倒れ込む。こうした転倒は、将棋倒し・あるいはドミノ倒しの場合とは異なり「内部崩壊型」「陥没型」などと呼ばれることもあり、人々の転倒が円形あるいは楕円形に拡がっていくのが特徴である。
これが、明石市歩道橋事故で一躍有名になった「群集雪崩(ぐんしゅうなだれ)」だ。
群集密度が少なくとも10人/m²以上の高密度にならないと、このタイプの転倒は発生しないとされている。
多くの資料では、20:45頃から50分を過ぎるまでの10分ほどの間に、群集雪崩は歩道橋内で少なくとも二回発生したと考えられている。
まず最初に、中規模程度の転倒が起きた。この時は死者が出るほどの大惨事には至らなかったが、続いて起きた二回目の転倒は最も悲惨だった。
その二回目の転倒が起きた場所は、歩道橋の南端から5メートルあたりの地点である。目撃者の証言によると、ここで倒れた人の山は高さ1.5メートル、幅5メートル、奥行き7~8メートルに及び、人の山はおむすび型だったという。
計算すると、これには300~400名が巻き込まれたと推定される。転倒した人々は歩道橋のシェルター部分の南端から北の方向に奥行25メートル、東西6メートルの広い範囲に分布していた。
書くだけでも痛ましい話なのだが、この転倒が始まった最初のきっかけは、一人の子供がうずくまったことだったという。これは想像だが、その子はそれまでの圧迫によって失神するなどしており、それが群集波動現象によって発生した空隙に倒れ込んでしまったのかも知れない。それが引き金となり、バランスを失った周囲の人々も折り重なっていったのではないか。
証言
ここから先は、『群集安全工学』に載っていた、事故に巻き込まれた人たちの生々しい体験談の引用である。「」を『』に書き換えるなどしているが、基本的にそのままのコピペだ。当時の生々しい状況の証言なので、苦手な人はとばしてもらった方がいいかも知れない。
「足を上げると、もう下ろすスペースはなかった。後ろからガンと押されて倒れた。押し潰されて死ぬと思った」
「つま先立ちでまわりの人と一緒にせり上がるような格好で身体が浮き、次第に傾いて倒れ込んだ。頭の上から何人もの人がかぶさってきて息もできず、もうダメだと思った」
「キャーという甲高い女性の悲鳴が聞こえた瞬間、20数人が倒れたのをきっかけにして倒れ込みが始まった」
「前後に数回揺れた後、次つぎに倒れ始め、沢山の人が乗りかかってきて一番下になった。息ができず死ぬと思った」
「目の前でおばあさんが倒れ、その上を人が次々に踏んでいった」
「足の下に真っ白な人の顔がみえ、ぞっとした」
「気を失ったが、頭を蹴られて気がついたら、上に10人くらいの人が乗っており、足の感覚がなくなってきた」
「足元をすくわれるように、仰向けで身体をくの字にして倒れた。双方からの圧力で、三重にも四重にも重なって倒れた。十数人が一気にというより、じわじわと倒れていった」
「身動きができない状態で、息子の姿が見えなくなったが、探すこともできない。足の上に人が乗っていて起き上がれない。ようやく起き上がって何人かを助け起こすと、その下に青い顔で息をしていない7才の息子を発見、口をつけて人工呼吸した」
「子供や小柄な人は押されて倒れ込み、その上に周囲の大人が覆いかぶさって下敷きになる。すると隙間ができて支えを失ったまわりの人びとが次つぎに折り重なって倒れ込んだ」
「手摺の中の子供は押されて仰向けになり、大勢の人に乗られて死んだと思ったが、運び出されて何とか意識を取り戻した」
「4歳の息子に『じっとしとくんやで』と言い聞かせて安全と思った壁と手摺の間に入れた。強い圧力で内臓が飛び出しそうな感じ。足が浮いてスローモーションのように傾き、意識がもうろうとなって息子を見失った。倒れ込んできた何人もの人の下から、身体をひねって足を抜き、手摺の中の息子を見つけて救出しようと手を伸ばしたが、さらに強い衝撃で3~4mはじき飛ばされた。折り重なった人を助け起こすと、8、9人目の男性の下に息子が横倒しになっていたが眼は半開きで、顔は紫色であった」
「『子供が死んでしまう』『子供だけでも助けて』という叫び声と悲鳴」
「4歳の娘は押される度に『グェー』と呻きながら何度も白目をむいて気を失った」
「下敷きになっていたのは、ほとんどが子供で、意識を失って人形のようだった」
「四方八方から捻れるように倒れ込んだ」
「5人も6人も折り重なった」
「倒れた人の山が大人の高さほどあった」
「数メートルもはじき飛ばされた」
警備の動き
同じ頃、時刻は20:40あたり。それまでにも、歩道橋内の混雑を訴える110番通報は29本にのぼっていたのだが、警備本部に駆け込んできた中年の男性がこう訴えたのだ。
「中がむちゃくちゃや、電話しても通じん。どないかせんかい!」
もしかするとこの男性は、親族が事故に巻き込まれていたのかも知れない。ともあれ、警備本部はここでようやく歩道橋内でとんでもないことが起きているのに気付いたのだった。
ちょっと前後関係がよく分からないのだが、歩道橋で群集雪崩が起きる直前には、警備員や明石市職員、それに機動隊が南階段の下に駆けつけて人の出入りを封鎖していたようだ。
「一方通行です。上がれません」
警備員ならびに市職員が、南階段から上ろうとする人々を制する。しかし彼らは、心ない人々から蹴りやタックルなどの暴行を受けた。
そして事故発生である。この時、機動隊はバリケードを作って階段を封鎖し、また歩道橋南側にあったエレベーターも同様に封鎖していたのだが、歩道橋内で大規模な転倒事故が発生したという報せを受け、機動隊の隊長はこう指示を出した。
「盾を置いて負傷者を救出しろ」
もともとぎゅうぎゅう詰めだった群集をかき分けての救助活動である。それがいかに困難なことだったかは想像に難くない。ともあれ機動隊員、市職員、それに一般市民も加わっての救助活動が行われた。
現場で転倒に巻き込まれた人たちの中には、なんとか自力で脱出できた人もいた。しかしほとんどはしばらく倒れたまま動けなかったという。
◆21:02
歩道橋の北側にいた消防職員から、無線で明石市消防本部へ集団災害対応要請が送られた。
「負傷者が多数あると思われる。国道28号に救急車の出動要請」
これを受けて消防本部は「第一次集団災害」を発令。21:07分には「第一次救助救急災害出動指令」も発動している。
こうして、ようやく歩道橋とその周辺の混雑は解消されていったのだが、群集雪崩による転倒で死者は11名、重軽傷者は247名(222名とも)に及んだ。亡くなったのは子供と高齢者ばかりで、10歳未満が9名、70歳以上が2名という内訳だった。