事故災害研究室・目次

本邦あるいは海外の事故・災害事例をまとめています。

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2023/06/17 【加筆修正】岡山県真庭バス踏切事故

 ◆お読みになる前に◆
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◆ハンガリー炭酸製造会社爆発事故(1969年)

  『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』という本がある。

 著者はジェームズ・R・チャイルズ。チャイルズと言っても、ファミコンゲームの名作『チャイルズクエスト』とはもちろん何の関係もない。この本では世界のさまざまな事故事例がさらっといろいろ紹介されており、中にはスリーマイルアイランドの原発事故やチャレンジャー号の爆発事故など、事細かに解説されている事例もあって読んでいて飽きない。

 で、この『最悪の事故が起こるまで~』の冒頭で挙げられているのが、1969(昭和44)年にハンガリーで発生したというすさまじい爆発事故である。

 本で読む限りでは本当にすさまじい、想像を絶する事故なのだが、どちらかというとマニアックな事故事例に入るらしくググッてもなかなか情報が見つからない。皆無ではないが、ほんの数行程度だ。

 また『最悪の事故が起こるまで~』でも、冒頭で簡単に経緯が書かれている程度である。それでもないよりはマシなので、これに依拠しながらご紹介しよう。

 

   ★

 

 1969(昭和44)年11日に、この事故は起きた。

 場所はハンガリーのレプツェラクという場所である(このレプツェラクという地名自体、検索しても出てこない。なんなんだ?)。ここには、天然ガスから二酸化炭素を取り出して販売している炭酸製造会社があった。

 この会社には、アンモニアによって冷却されている巨大タンク四基と小型ボンベがあり、両方に液体二酸化炭素が貯蔵されていた。

 ここで、液体二酸化炭素について簡単に説明しておこう。と言っても、筆者もよく知らないので単なる知ったかぶりだが。

 液体二酸化炭素とは、要するにドライアイスの「もと」である。

 知っての通り、二酸化炭素は通常は気体である。が、これに強い圧力をかけると液体になる。これが液体二酸化炭素で、さらにこれを空気中へ急激にブシューッと噴出させると、今度は一気に圧力が下がって、気化熱と急激な膨張によってすぐに凍結し、固体になる。

 この段階では、凍結した二酸化炭素はまだ「雪」のようなものである。これをプレス機などで圧縮するとドライアイスになるのだ。この圧縮のやり方によって、さまざまな形のドライアイスを作ることが可能になる。

 我々の最も身近にある液体二酸化炭素といえば、生ビールの押出し用に使われる緑色のボンベだろう。あれには液体二酸化炭素が詰まっており、外に出てくる時はおよそマイナス60度の状態になっているのだ。

 さて先述の通り、このレプツェラクの工場では、天然ガスから二酸化炭素を採取していた(副生ガスからも二酸化炭素は取れるらしい)。ところで、こうしたガスはプラントに到着した時点では僅かな水分を含んでいるもので、これは取り除かなければならない。しかし、ガスにたまたま水分が残ることもある。そうなると、計器や機器、残量計や安全弁まで凍結してしまうこともあったという。

 素人の解釈だが、液体二酸化炭素はとても冷たいから、一緒になっていた水分も凍ってしまうということだろう。

 ここまで見ただけでも、この工場のボンベにはとても恐ろしいものが詰まっていたことが分かる。

 ちなみに、水に炭酸ガスを入れたいわゆる「ソーダ水」の大量生産が可能になったのはハンガリーが最初らしい。なんでも当地ではワインを炭酸水で割る飲み方が好まれているそうで、それだけ炭酸水および炭酸ガスは需要というか作り甲斐があるのかも知れない。

 この工場では11日の深夜に操業を開始した。その中で、オペレーターが「Cタンク」なるタンクへ液体二酸化炭素を送る操作を行っている。これは参考資料によると「液体二酸化炭素をたくわえておくボンベが足りなくなった」ことが理由だったそうで、ここらへんの因果関係はよく分からない。

 問題は、オペレーターが液体二酸化炭素を送り込んだ「Cボンベ」が、およそ30分後に爆発したことである。前日の1231日にプラントを閉めた時には、各タンクには少なくとも20トンの液体二酸化炭素が入っていたというから、タンクはすでに満タン状態だったのかも知れない。ここらへんの詳しい錯誤の内容や原因も定かでない。

 とにかく「Cタンク」は爆発し、その破片によって「Dタンク」も破裂してしまった。

 ここからがピタゴラスイッチである。二基のタンクが爆発したことで、まず周囲にいた四名が死亡。さらに「Aタンク」も基部固定ボルトから外れてしまい、直径約30センチの穴が開いた。すると今度は、その穴から高圧の液体二酸化炭素が噴出し、なんと「Aタンク」はロケットよろしく地上から飛び立ってしまったのだ。

 離陸したAタンクは建物の壁を突き破り、大量の液体二酸化炭素が洪水のように床にまかれた。

 これにより、近くにいた五名が瞬間冷凍された上に、室内の温度は摂氏マイナス78度まで低下。たちまち部屋中が壊れた冷凍庫のように分厚いドライアイスで覆われ、もはや呼吸するのも不可能な状態となった。漫画『ワンピース』のヒエヒエの実の能力者による技「アイスエイジ」のような状態が、現実世界に出現してしまったのである。

 瞬間凍結してしまった五名は無事だったのだろうか……。だがとにかく最初に述べた通り、この事故はこれ以上詳しい情報がないので、その後のことはまるきり不明である。そもそも事故が起きた会社名すらも分からない。モヤモヤする話だ。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
ドライアイスのつくり方は?│コカネット
炭酸ガスのつくられ方|一般社団法人日本産業・医療ガス協会
炭酸ガス圧力調整器 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社
炭酸ガス容器の特徴 CO2 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社

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◆東海道線「列車見送り客」接触事故(1938年)

 日外アソシエーツの本で『昭和災害史事典』という、まるで当研究室のために書かれたとしか思えないシリーズが存在している。

 筆者の手元には1996年発行の第二版があり、時間があるとパラパラ眺めたりしている。事典なので、書かれているのは各災害の名称と簡単な説明だけなのだがとにかく興味深い。

 で、そのうちの「①昭和2年~昭和20年」編を紐解くと、1938(昭和13)年1月に発生したという、日付も分からない鉄道事故が紹介されている。引用すると、以下の通りだ。

 

東海道線列車見送り客接触事故(愛知県西春日井郡西枇杷島町)
1月、愛知県西枇杷島町で、出征兵士を見送ろうとした客が国鉄枇杷島駅近くの線路わきに集まった際、東海道線の列車にはねられて30名余りが死傷した。

 

 分かるのは、これだけである。30名余りが死傷したというほどだから大惨事なのだが、発生した日付も、正確な死傷者数も不明というのは奇妙な話だ。もちろんググッてもこの事故の情報は一切見当たらない。

 引用した『昭和災害史事典①昭和2年~昭和20年』の編集後記にも、この期間に発生した災害は記録の発掘が難しいとあった。

 また戦争末期にもなると、言論統制化・戦時下という特殊な状況だったため、報道管制などによって公表されなかったものもあるという。

 上記の事故の詳細な情報が不明である理由が何なのかは分からないが、簡単に記録が見つからないのも仕方ないことなのかも知れない。

 もちろん情報が揃っている事例はできるだけきちんと執筆するつもりだが、これからはこういう詳細が不明な「小ネタ」もどんどん出していこうと思う。

【参考資料】
◆日外アソシエーツ『昭和災害史事典①昭和2年~昭和20年』1995

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◆明石市歩道橋事故・2001年(下書き)

※これは書きかけの下書きです。今後加筆修正します。

 兵庫県明石市の、JR山陽線・朝霧駅からほど近い「朝霧歩道橋」で群集事故が発生したのは2001(平成13)年7月21日の夜のことだ。
 事の経緯は、駅から現場の歩道橋を渡った先にある明石市大蔵海岸で花火大会が行われたところから始まる。もう少しだけ詳しい位置関係を述べると、歩道橋の北に駅があり、南側に海岸があるという感じだ。
 よって、花火大会に訪れた人々のうち、多くは駅から歩道橋を通って海岸へ行き、花火を見物したら今度は海岸から歩道橋を通って駅へ戻る、という動線で移動することになる。
 花火大会が始まる前でも終わった後でもいいのだが、もしも大勢が一気にこのようなパターンで動けば、どこかの時点で歩道橋が大混雑するのは自明の理である。あるいは、会場へ行こうとする人々と、駅へ戻ろうとする人々が歩道橋の上で衝突した場合も同様だ。
  ここで、この歩道橋の構造も一度知っておく必要がある。橋の全長は103.7メートル、幅8.4メートル。このうち人が歩ける部分の幅は6メートルだった。朝霧駅から来て橋を渡ると、約75平方メートルの踊り場からほぼ直角に右折し、今度は幅3メートルの階段48段を下りて地上に到着、という流れになる。
 事故発生のメカニズムという観点から考えた場合、この橋には次のような二つの問題点があった。

①朝霧駅側には歩道橋よりも広いテラスがある。そこから、幅6メートルの歩道橋→幅3メートルの階段、という流れで進むことになるので、歩行者にとっては「海岸に向かって進むとだんだん狭くなる」という、いわゆるボトルネック構造だった。
 ドラえもんのひみつ道具のひとつ「ガリバートンネル」をイメージするといいかも知れない。

②橋の上には高さ約3メートルのアーケード状の屋根が設置されている。また、利用者を横風から守り、さらに橋上からの落下物などを防ぐことを目的としたポリカーボネイト製の壁もついていた。
 つまりこの歩道橋は、トンネル状だったわけである。
 実際には、屋根に大きな開口部があるので完全に覆われているわけではないし、壁も透明な板が使われているので視界は利く。
 よって普通に利用する分には、決して狭苦しさを感じさせるものではなかった。

 と、以上の内容をざっくり踏まえて、事故発生当時の状況を時系列で辿っていこう。
 念のためお断りしておくと、以下では「トンネル状の歩道橋で人間がぎゅうぎゅう詰めになって大惨事に至る」経緯を辿っていくことになる。
 いたずらに凄惨な書き方をするつもりはないが、もしも読んでいて途中で息苦しく感じたら――あるいはそうなる恐れがある方は――次の「★」マークまでとばして頂いた方がいいだろう。
 実は筆者は、最初に資料を読んだ時に動悸が激しくなってちょっと大変だった。

   ★
◆18:00頃~
 歩道橋が混雑し始めた。朝霧駅方面から、花火会場に向かう人々が入ってきたのだ。
 混雑の主な理由は二つである。
 ひとつは、前述のボトルネック構造だ。橋を渡り切っていざ階段を下りようとすると、幅がそれまでの半分の3メートルになるのだ。
 よってそれまで幅6メートルの橋を悠々と渡っていた人たちも、ここで詰まることになる。
 しかも階段を下り切った歩道では、花火の見物客狙いの夜店が軒を連ねていた。そこで大勢が立ち止まるものだから、階段も、橋の上でも人々が詰まってしまうのだった。
 それでもまだ、歩道橋は自由に歩ける状況だった。

◆18時半頃
 朝霧駅のホームは大混雑の状態だった。
「皆さん、花火会場へはあちらの歩道橋をご利用ください」
 駅では、歩道橋を使って会場へ向かうルートを人々に向かってアナウンスしていた。迂回路もあるにはあるのだが、分かりにくいため歩道橋の方を案内していたようだ。
 この時点でも、まだ歩道橋は比較的自由に歩けた。

◆18:50~19:10頃
 上述の理由から、歩道橋の混雑はますますひどくなる。
 さすがにこれはヤバいと考えた警備会社は、明石署に連絡した。
「朝霧駅から、会場へ向かう人を制限できませんか? 群集を一気に受け入れるのではなく、人数ごとに分けて断続的に入場させるんです」
 しかし明石署の答えはノー。
「そんなことをしたら、今度は駅の方が混雑しちゃう。ダメです」
 もともと、彼らは雑踏整理にはあまり注意していなかった。むしろ警戒していたのは暴走族やケンカの方だったのである。

◆19:25~35頃
 どうやって数えたのかよく分からないが、歩道橋の人数が1,800人を突破した。これは、入場規制を発動する想定人数を超える数字である。
 19時半頃になると、歩道橋の朝霧駅側の入り口のあたりは、人々の肩が触れ合うくらいの密度になってきていた。
 特に歩道橋の中央から先で、混雑度が増し始める。先述したボトルネック構造が原因で、渋滞が発生していたのだ。しかも階段下は、夜店と、その客と、花火の見物客でいっぱいである。これでは歩道橋にいた人たちが進めないのも当然である。
 歩道橋内部は、だんだん人々が密集したことによる酸欠・気温上昇で不快な状態になってきていた。
 それでも人の流れがストップしていたわけではないので、特にそれをどうにかしようという話には至っていない。

◆19:45頃
 花火大会が始まった。より厳密に言うと、このイベントは「第32回明石市民夏まつり」の一環として行われた花火大会である。
 花火が始まったのだから、きっと歩道橋の人々も急いで会場に向かうだろう。そうすれば混雑もいくらか解消されるはずだ……と考えたくなるが、そうはならかった。
 実は、歩道橋を渡り切った南端のあたりは展望デッキのようなスペースになっており、昼間であれば大蔵海岸が一望できる場所だったのである。海岸の打ち上げ花火を見物するには打ってつけのスポットだ。また、階段の踊り場付近でも、立ち止まって花火を見上げる人が多くいた。
 さらに、そうではない人々も、花火が上がれば歩みを止め、散ればまた歩き出す――の繰り返しである。進み幅がだんだん狭くなり、人々はなかなか進まない。こんなこともあって、歩道橋の混雑ぶりはひどくなる一方だった。
 群集事故の恐ろしい点のひとつに、「群集の後ろにいる者は、前方の異常な状態に気付かない」というものがある。まだこの時点では事故は起きていないが、駅側から早く進むように叫ぶ者もいた。
「花火が終わってしまうやろ。進め」
 また、それに同調する者もいたのだろう、駅側からの圧力が増していった。
 ここで警備員が、また明石署の警察官に連絡している。
「このままでは危険です。通行を制限しましょう」
 しかしこれも答えはノー。
「それは花火大会が終わった後でいいでしょう」
 おそらく明石署では、人々が帰路に就く際に雑踏整理をすればよいと考えていたのだろう。
 しかしこの辺りから、すでに歩道橋の中で危険を感じた人も大勢いた。ある人は押していたベビーカーを畳み、子供を抱きかかえた。
 またある人は、歩かせていた子供を、やはり同じように抱きかかえたり高く掲げたりした。そうしないと呼吸ができないほどの圧力だったのだ。
 また、歩道橋のポリカーネイド製の壁と、鉄製の手すりとの間へ子供を避難させ、自分自身もそこに入る大人もいた。それでも、そこまで人々の圧力が加わって、必死に子供を守らなければいけなかったという。

◆20:21頃~
 花火大会が始まって30分が経過したあたりで、いよいよ歩道橋やその周辺からは「身動きができない」と混雑を訴える110番通報が相次いで寄せられた。
 しかし通信の混雑と電波状況の悪さなどから、救急要請の電話が通じないことも多かった。

◆20:28~20:38頃
 花火大会が始まって45分以上が経過する頃には、携帯電話からの119番通報が相次ぐ。この時はまだ、怪我人の救助を要請するような通報はなかった。混雑のせいで体調を崩している人がいる、という内容がほとんどだったという。
 そこで、明石市消防本部の通信指令室から第5救急隊に救急出動の指令が出されたが、この指令もピントがずれていた。「朝霧駅ロータリーへ救急出動せよ」というものだったのだ。前述の通り、この時は電波状況が悪く、具体的な場所をうまく聞き取れなかったらしい。
 救急隊が朝霧駅へ出動したものの、怪我人はなし。それもそのはず、混雑しているのは駅ロータリーなどではなくその上の歩道橋だったのだから。
 この時点で、歩道橋では約6,000人がぎゅうぎゅう詰めになっていた。
 ちなみにこの橋は、海水浴客で賑わう7・8月は一日で7,200人が通過することを想定されて作られていた。この、ピーク時の一日の交通量に近い人数がひしめき合っていたのである。
「戻れ!」
「子どもが息できない」
 現場では叫び声が飛び交い、中には失神する人や、体が宙に浮いてしまう人もいた。

◆20:31頃
 ようやく、約3,000発の花火の打ち上げが終了した。打ち上げられた花火の数は約3,000発にのぼった。
 歩道橋の南端で花火を見ていた人たちも、ようやく動き出す。
 この見物客たちの背後では、トンネル状のアーケードで覆われた歩道橋の内部で橋ですし詰めになって苦しんでいた人たちがいたと思うのだが、それでもこの時は花火を楽しむ余裕があったのかと少し驚く。
 とにかく彼らは一斉に北の方角へ動き始めた。もと来た朝霧駅へ向かうためだった。
 また、彼らとは別に、花火見物を終えて南側の階段を上り始めた人たちもいたと思われる(ちょっとはっきりしない。歩道橋の混雑状況を見れば、とても上る気にはなれなかったと思うが)。
 一方で歩道橋上には、反対に駅から歩道橋の南側――つまり海岸方面――へ進む人々の流れがあった。この正反対の方向からの人の流れが、歩道橋上で衝突してしまった。
 弥彦神社事故やラブパレード事故のパターンである。目的地へ行こうとする人々と、目的を果たして帰ろうとする人々がかち合ってしまったのだ。
 この頃には、警備員もやっと明石署からの許可を得て、駅から歩道橋への入場を規制し始めた。しかし焼け石に水で、人の流れを止めることはできなかったという。
 歩道橋内は、一平方メートルに13人以上が押し込められるという超過密状態になった。子供の泣き声や怒鳴り声が飛び交い始める。南階段の下には警官がいるのだが、歩道橋内の半透明の壁を叩いて助けを求めても気付かれない。やがて、群集の中から、自分たちで何とかしようとする動きが出始めた。
「駅方向へ戻って下さい。戻って下さい!」
 と、駅方向へ伝えようとする人もいた。さらに、一人の人が、
「あかん。みんな戻れ!」
 と叫んだことで、駅方向(歩道橋の北側)と海岸方向(歩道橋の南側)のそれぞれの方向に向けて、大勢が掛け声を上げ始めた。
「戻れ! 戻れ!」
 これを聞いて、実際に引き返す人もいたという。しかし、既に超過密状態になっていたところでは、目立った効果はなかったようだ。

◆20:40頃
 この時まで、歩道橋での混雑を訴える110番通報は29本にのぼった。

◆20:45~20:50頃
 この時、歩道橋では約6,400名がぎゅうぎゅう詰めになっていた。
 ここで、惨劇の予兆が発生する。歩道橋の群集に、ジワッとした波のような圧力が加わったのだ。
 この「波」は東西南北あらゆる方向から発生し、
 これによって一部の人は失神。さらに、押さえ込まれるように倒れ込む小規模な転倒も発生した。身長の低い者は圧迫され、背が高い者はつま先立ちや片足立ち、あるいは浮き上がり気味になり、斜めになりながら耐えている状態になった。
 この時は何人もの人の体重が加算された状態だったことから、一メートル幅あたり約400キログラムの力がかかっていたと考えられている。
 そして事故が発生した。群集雪崩の発生にともない(群集雪崩とは何なのか、という問題については後述する)、歩道橋の南端から5メートルほど北側の場所、壁際のあたりで6~7人が折り重なって転倒したのだ。
 超過密状態の間は、それはそれでバランスが取れていたのである。しかし、このような転倒が発生したことでバランスが崩れ、いわば「転倒の連鎖」が起きた。
 ぎゅうぎゅう詰めだった中で、急に人が倒れて隙間ができた。するとその隙間を中心に、さらに周囲の人間が吸い込まれるように次々に折り重なって転倒。斜めになりながらこらえていた人もバランスを失い、飛ばされ、倒れ込み、重なり合い、最終的にはこの転倒の連鎖に300~400名が巻き込まれた。
 20:45分頃から50分を過ぎるまでの10分ほどの間に、こうした転倒事故は歩道橋内で複数回発生したと考えられている。
 さてこの時には、既に機動隊が歩道橋南側の階段下に到着しており、バリケードを作って階段を封鎖していた。また、こちら側にあったエレベーターも同じく封鎖していた。
「一方通行です。上がれません」
 と、警備員や明石市の職員は人々に呼びかけたが、心ない人々からタックルされたり蹴りを入れられたりしている。
 そこで、歩道橋内で大規模な転倒事故が発生したと知らせが入った。それを聞いた機動隊の隊長は、
「盾を置いて負傷者を救出しろ!」
 と、動き出した。転倒に巻き込まれた人たちは、しばらくは倒れたまま動けなかったという。千人単位で人がひしめき合っていたところで、折り重なって転倒したのだから当然だろう。
 現場では、機動隊員や市職員、一般市民による救出が行われた。また、自力で脱出できた人もいた。
 重軽傷247名(222人とも)、死者は11名に及んだ。亡くなったのは小さな子供とお年寄りばかりで、10歳未満9名、70歳以上2名という内訳となった。

◆21時02分
 歩道橋の北側にいた花火警備の消防職員から、明石市消防本部へ「集団災害対応要請」が携帯無線で送信された。
「負傷者が多数あると思われるので救急車の出動要請。国道28号に部署するよう」
 これを受けて、消防本部は「第一次集団災害」を発令。さらに21時7分には「第一次救助救急災害出動指令」も発動している。

 このような経過を経て事故は発生し、そして歩道橋とその周辺の混雑もようやく解消されていった。

(未完)


【参考資料】
◆神戸大学 都市安全研究センター・大学院工学研究科建築学専攻 安全都市づくり研究室
http://www.research.kobe-u.ac.jp/rcuss-usm/news/2001/akashi/keika.html
◆明石市ホームページ「明石市夏まつり事故調査報告書」
https://www.city.akashi.lg.jp/anzen/anshin/bosai/kikikanri/jikochosa/index.html
◆NEVERまとめ【7月21日】憶えていますか。明石花火大会歩道橋事故を振り返る
https://matome.naver.jp/odai/2137419730765194001
◆NHK放送史「明石 花火大会で歩道橋事故」
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030306_00000
◆失敗百選 ~明石の歩道橋上の圧死(2001)~
http://www.sydrose.com/case100/324/

◆ホワイト・ホース・ファイナル(1923年・イギリス)

  1923(大正12)年にイギリスで起きた「ホワイト・ホース・ファイナル」と呼ばれる出来事は、かなり大規模な群集事故だった。負傷者もかなりの数に上っている。だが死者は出ておらず、当研究室で取り上げる事例の中では比較的穏やかなものである。

 むしろこの事例では、大惨事に至る寸前で混乱が鎮められている。今でも語り継がれて伝説化しているのは、この群集の鎮静化についてなのである。

 よって、ホワイト・ホース・ファイナルは「群集事故」の事例というよりも「群集整理」あるいは「雑踏整理」の事例と呼ぶべきかも知れない。

    ★

 1923(大正12)年428日のことである。この日、ロンドンのブレント区ウェンブリーにあるサッカースタジアム「ウェンブリー・スタジアム」では、FAカップの決勝戦が行われる予定だった。

 少し解説しておくと、もともとサッカーとラグビーはイングランド発祥のスポーツである。同じくロンドンにあるトゥイッケナム・スタジアムが現在は「ラグビーの聖地」と呼ばれるのに対し、ウェンブリー・スタジアムは「サッカーの聖地」とされている。

 そして、この1923428日というのは、実はウェンブリー・スタジアムの竣工日でもあった。つまりこの日のFAカップ決勝戦というのは、同スタジアムにおける記念すべき初試合となるわけだ。

 しかし問題もあった。第二次世界大戦前、イングランドの人々のサッカー熱はかなりのもので、スタジアムの収容人数を大幅に上回る観客が押し寄ることもしばしばだったという。

 時に、観客たちは入場制限もなんのそのと言わんばかりに入場口を破壊して突入したり、柵を乗り越えたり、スタジアムの屋根に上ったりして観戦したそうだ。運営側もさぞ頭を痛めたことだろう。

 ただこの時代は、そんな観客の安全について関心が寄せられることはほとんどなかった。考えてみれば無理もない話で、あんがい、暴徒同然の観客がどうなろうと知ったこっちゃないというのが関係者の本音だったのではなかろうか。

 さて、ウェンブリー・スタジアムの収容人数は、立ち見も含めて125千人。これは当時としては前例のない収容人数だった。ところが当日はこれに2030万人の観客が押し寄せたという(正確な観客数は不明)。

 当日、入場ゲートは予定通り午前11時半に開かれた。だが、午後1時までに膨大な数の観客が殺到。これを受けて、運営側は午後145分にゲートを閉鎖することに決めた。

 結果、ゲート前にはスタジアムから閉め出された群集が溢れかえった。彼らを鎮めるために地元の警察官が出動するも、人数が多すぎてとても手に負えない。午後215分には、ついに一部の観客が柵を上るか破るかして強行入場する事態になった。

 今では考えられないが、彼らはなんとピッチ(グラウンド)にまで押し寄せ、ゴール近くまでひしめき合っていたという。完全に邪魔である。お前らは試合を観に来たのか妨害しに来たのか、と突っ込みたくなるのは筆者だけではないだろう。

 あまりの混乱のため、試合を中止することも検討されたという。だが、かえって群集が騒ぐかもしれないので中止案は却下された。

 これだけ人がひしめき合って怪我人が出ない方が奇跡である。結果として一千人以上の負傷者が出た。当時の観客の一人は「血みどろの修羅場だった」と述べている。

 で、この事故の何が「ホワイト・ホース・ファイナル」なのかというと、現場に駆けつけて雑踏整理を行ったジョージ・スコーリーという警官が見事に群集を落ち着かせたのだ。いい仕事してますね~。彼のこの功績が語り継がれることになったのである。

 この日、警部補のジョージは非番だった。しかしウェンブリー・スタジアムの常軌を逸した混雑を鎮めるために駆り出されたのだった。現場に駆け付けた彼は白馬「ビリー号」に乗ってビッチ内をカッポカッポと進み、威厳に満ちた態度で少しずつゆっくり観客を落ち着かせ、誘導したのである。

 これによりピッチのスペースが確保できて、予定されていた試合は45分遅れのキックオフとなった。

 言うまでもないが、ホワイト・ホースとは白馬のことである。この見事な雑踏整理が語り継がれ、この試合は「ホワイト・ホース・ファイナル」と呼ばれるようになった。

 もっとも、怪我人が出ているので手放しで称賛できるものでもないのだが、このジョージ警部補がいなければもっとひどい惨事になっていたかも知れない。現に、ヨーロッパではサッカー会場での群集事故がしょっちゅう起きている。

 ところで、筆者の拙い英語力で英語版のウィキペディアを読んでみると、どうやら何から何までジョージ警部補のお手柄というわけでもないらしい。本当は彼が到着する前から、群集は少し落ち着き始めていたようなのだ。

 きっかけは、午後245分に国王ジョージ五世が到着したことだった。また、これにあわせて楽団による「ゴッド・セイブ・ザ・キング」の演奏が始まると、群集はみんなで歌ったという。これが人々の血圧を下げる効果をもたらしたらしく、彼らは当局による雑踏整理に協力し始めたのだった。

 また、選手たちも観客に対してタッチラインの外へ下がるよう呼びかけている。結局のところ、大惨事を防ぐことができたのはジョージ警部補という個人の偉業だったわけではなく、関係者の努力の賜物だったのである。

 ジョージ警部補とビリー号の功績が伝説化して独り歩きしてしまったのは、身も蓋もない言い方をすれば「その方がドラマチックで面白いから」だろう。

 それに白馬はカッコいい。サッカーの聖地であるウェンブリー・スタジアムの初試合が台無しになりかけたところで、颯爽と白馬に乗った英雄が現れて事態を鎮静化する――。これほど素敵なストーリーはちょっとない。

 ちなみにこれは裏話なのだが、この「白馬」ビリー号は実際には灰色だったという。ただ白黒のニュース映像では白色で映ってしまうため、「ホワイト・ホース」の強烈なイメージが出来上がったということらしい。

   ★

 大衆論・群衆論の名著である『群集心理』を著したギュスターヴ・ル・ボンによると、群集をコントロールするポイントは以下の三つである。

①はっきりと、一方的に、分かりやすいメッセージを出す
②メッセージを何度も繰り返し、人々の心に刻ませる
③感情的な空気を広げていく

 そういえば本邦でも近年、群集事故が危惧される現場では「DJポリス」が出動して巧みな話術で人々を誘導するようになった。

 DJポリスは、例えばスポーツの試合では「サポーターのもチームの一員だ」というメッセージを繰り返して、集まった観客に責任ある行動を取るよう促すという。巧みな話術でメッセージを伝えて群集をコントロールするというやり方は、まさにル・ボンの述べたツボを押さえているといえるだろう。

 ホワイト・ホース・ファイナルで雑踏整理が成功したのも、まさにこうしたポイントを押さえていたからなのかも知れない。

 エスコートされて会場に到着した国王の姿や、カッコいい白馬に乗った警官の姿はきっと威厳に満ちていたことだろう。人々を心服させる威厳に満ちた姿、そして皆で国家斉唱。これらは、DJポリスの巧みな話芸と同じように、ヒートアップした群集の狂熱をひとまず鎮める効果があったに違いない。

 そういえば、どれくらい的確な喩えかは分からないが、幼児がワガママを言い始めたりダダをこね始めたりした時も、ちょっと別の方向に意識を向けさせるだけで面白いくらいにクールダウンすることがある。

 これは、子育て経験者なら一度は経験したことがあるだろう。理不尽なワガママに対して「いけません」などと真正面から否定するよりも、テレビを見せて「ほら面白いのやってるよ」と言ってみたり、「そうだ、美味しいの食べに行こうか!」などと、別の方向に気持ちを誘導した方が効果的なこともある。

 何のことはない、群集とは眠くなった幼児のようなものなの……かも知れない。

 と、こんなふうに昔々のイギリスでの出来事とDJポリス、それに眠くなった幼児のことをつらつらと連想してつなぎ合わせてみると、「人(群集)の心理は古今東西でそんなに大きな違いがないんだな」と感慨深くなる。

 群集をコントロールする手段がいまだ確立されていない1900年代初頭、たまたまとはいえ群集心理のツボを押さえ、大惨事を防いだ奇跡的な出来事。それがホワイト・ホース・ファイナルだったのだ。

 もしかすると、群集事故の歴史について知らない人は「奇跡だなんて何を大げさな」と感じるかも知れない。

 しかし、当研究室でご紹介している数多くの事故事例を読んで頂ければ、このホワイト・ホース・ファイナルがいかに稀有で貴重な成功事例であるかが分かるだろう。

 そして、ジョージ警部補とビリー号の系譜を継ぐ日本のDJポリスという試みがどれほど意義あるものなのか、きっと納得して頂けると思う。

 おそるべき群集事故と、苦難に満ちた雑踏整理の歴史をとくとご覧あれ。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
戸田整形外科リウマチ科クリニックホームページ
グロウマインド


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◆神龍湖遊覧船転覆事故(1934年)

 1934(昭和9)年324日のことである。この事故は、広島県北東部の景勝地・帝釈峡にある神龍湖で発生した。

 神龍湖というのは通称である。この湖は人造のダム湖で、帝釈峡のほぼ中央に建設された「帝釈川ダム」というのが正式名称だ(本稿では神龍湖の呼び名を使う)。

 完成したのは1924(大正13)年で、本邦でも最も早い時代に建てられたコンクリートダムである。ここにかかる神龍橋と桜橋は国の登録有形文化財にも登録されている。

 事故が起きたその日、神龍湖周辺は雨が降ったり止んだりの不安定な天候だった。当時から神龍湖は有名な観光名所であり、遊覧船に乗ることもできたが、この時遠足に来ていた小学校の引率の教諭2名は「この天候では、遠足は中止にすべきだろう」と判断した。

 この小学校は、比婆郡田森村(現・庄原市東城町粟田・同市東城町竹森)の粟田尋常小学校と粟田尋常高等小学校である。引率は横山常夫・田辺サキヨ教諭だった。

 遠足を中止すべきかどうか、横山先生は役場から校長に電話をかけて相談している。で、校長もやはり「遠足は中止して帰れ」と指示を出したのだが、ここで先生に遠足を強行するよう懇願したのは児童たちだった。

「どうか連れていって」

「死んでも行きたい」

 彼らはそんなふうに訴えたという。

 仕方ないので、とりあえず紅葉橋(現在の神龍橋)まで連れていったものの、それで児童たちの気が済むはずもなかった。何せ彼らは海も知らないような山育ちばかりで、人造湖とはいえこうした湖は憧れだったのだ。

「先生、やっぱり遊覧船に乗りたい」

 こうして児童たちの要望に引きずられて、先生を含めた総勢42名が乗船することになった。

 当時の遊覧船というのがどういう形態だったのか、筆者はよく知らない。古い写真を検索して想像するしかないのだが、とりあえずそれは屋形船で、船頭による手漕ぎだったらしい。

 で、船は神龍湖に漕ぎ出してしばらく進んでいたが、異変が起きた。船底に敷いてあるゴザが濡れてきたのだ。が、船頭は、

「大丈夫です。皆、そのまま静かに座っていて」

 と声をかけながら漕ぎ続けた。しかし天狗岩の出鼻を回ったところで、船底からザーッという水音がした。引率の横山先生は真っ青になって船頭に問いかける。

「これはいけん、どうしましょう」

「皆、着物を脱いで穴をふさいで。騒がずに落ち着いて、立ち上がらないように」

 船頭はそう答えた。おそらく、最初は大丈夫だと言っていた彼も、この時は焦っていたことだろう。

 水はどんどん進入してくる。児童も先生たちも船頭の言う通りにし、水が腰や胸に来るまで震えて座っていた。しかし浸水がいよいよ激しくなって船が傾いたところで、横山先生が叫んだ。

「泳げる人は泳げ!」

 そこで、高等科の男子数人は水中へ飛び込んでいる。

 他の児童は、屋形船の柱や舷に必死につかまった。が、やがて船は堰堤の少し上あたりで転覆し、つかまっていた何人かは船の下へ引き込まれてしまった。

 肌寒い天候だった上に、雪解け水が入り込んでいる湖水は冷たい。児童たちと一緒に投げ出された二人の先生は、船の下に引き込まれた者を押し上げたり、板片を与えて「岸に向かって泳げ」と命じた。もしかすると、さらに先生は「泳げない者は自分にしがみつけ」とでも指示を出したのかも知れない。何人かの児童は先生に縋りついたのだが、彼らは岸にたどり着くことなく力尽き、ついに水中へ引き込まれていった。

 こうして児童12名と教諭2名の計14名が犠牲になった。湖の水面には、児童たちの帽子が浮かんでいたという。難を逃れた児童は30名で、当時船を漕いでいた船頭も助かっている。

    ☆

 それにしても、突然遊覧船が浸水した原因は何だったのだろう。これは資料を呼んでもはっきりとは書いておらず、確認するためには裁判記録あたりをチェックする必要がありそうだ。

 最初は、資料に書かれていた文章の文脈からして「雨の中で遠足を強行したため事故が起きた」のかと思った。

 しかしよく考えてみると、屋根なしのボートなら雨水が溜まって転覆することもあるかも知れないが、これは屋形船である。また記録を読んでも船底から浸水してきたのは明らかなので、「雨の中で遠足を強行した」ことが原因とは言えないだろう。児童はもちろん二人の教諭も、この事故は予見できなかったに違いない。

 資料では、雨の中で遠足を強行したがゆえの悲劇という感じで書かれているが、それはおそらく、事故関係者の「あの時遠足を強行さえしていなければ」という悔しさと無念さが後付けで生み出したストーリーなのだと思う。実際には、遠足を強行したことと、船が転覆したことに直接の因果関係はないと思われる。

 単純に考えて、船に欠陥があったのではないだろうか。あるいは乗った人数が多すぎたのかも知れないが、仮にどちらかだとしても結論は同じである。

    ☆

 さて午後三時頃に警鐘台(いわゆる半鐘)が鳴らされ、地元の消防団員が集合。さらに地元の人たちも加わって十日間ほど遭難者を捜索した。

 引き上げの方法として、釣り針の形をした鉄筋をロープの先に三方向に向けて取り付け、水中に沈めて引っかけるというやり方が採用された。これで45グループに分かれて捜索し、その後は潜水夫も潜ったという。しかし湖は水深が深く、両岸が迫った谷間の湖水は見通しがきかず真っ暗で、捜索は困難を極めた。

 ともあれ、田辺サキヨ先生と12名の児童の遺体は引き上げられ、横山先生だけが見つからなかった。

 ちなみに田辺先生は、自分の子供も遠足に加わり乗船している。しかし、遭難時は他の児童を優先して救助しており、最期は力尽きて親子ともに亡くなったのだった。

 横山先生の遺体が見つかったのは翌年の8月下旬のことである。少し生々しい話になるが、きちんと書き記しておこう。発見のきっかけとなったのは、堰堤補修のためダムの水を全部抜いたことで、当然遺体も出てくるだろうと関係者たちは見守っていた。

 そして排水が終わりかけた頃、泥の中から油のようなものが浮いてきたので掘ってみると、遺体が出てきた。冷たい水の中だったので屍蝋の状態だったのか、掘り出した直後は臭みもなく当時の状態そのままだったという。

 だが、わずかな時間で臭いが出てきたので、容器に収めて新坂村の三坂火葬場へ運ばれ、荼毘にふされたのだった。

 やや余談めくが、その年の夏は干天が続き、帝釈川下流の水源が枯れたため、周辺地域では飲み水が不足したという。それで仕方なく帝釈川の水を飲み水の足しにしたが、遺体が沈んでいる湖の水だということで、やはりいい気持ちではない住民もいたようだ。

 事故の状況は浪曲でも歌われ、レコードを購入して蓄音機で聞いた家もあったらしい。特に、亡くなった田辺先生の子供が「お母さん!」と助けを呼ぶシーンでは聴く人の涙を誘ったという。

 しかしその後、事故の責任を問う裁判の判決が出て、レコードは発売禁止になった。こうした経緯はちょっと今の時代からは想像がつかないが、当時はそんなこともあったのだろう。

    ☆

 この事故が新聞で報道されると、各方面から弔意文と義捐金が送られてきた。また、広島県教育会・広島市版同窓会・広島県教育協会も全国に義捐金を呼びかけている。

 そうして集まった金額の一部は遺族の弔慰金に使われた。また粟田小学校の校舎そばには殉難記念館が建てられ、事故現場となった神龍湖畔には殉職した2名の先生の銅板像が建てられている。さらに、庄原市東城町の朝倉神社にも、殉難慰霊塔が設置された。

 これらの慰霊施設は、それぞれ変遷がある。まず、事故当時の遭難者の遺品はもともと殉難記念館に保管されていたのだが、これらは栗田小学校のメモリアルルームに移されて丁重に保管されているという(2019(令和元)年9月時点の情報)。よって殉難記念館はどこかの時点でなくなったのかも知れない。

 田森地区によると、事故から85周年を迎えたことを契機に、当時の記録や資料を整理・保存する計画も進めているようだ。どこかの施設や個人で所有している個人の遺品や資料などがあれば、一緒に保存管理したいと地区だよりで呼びかけていた(田村自治振興区だよりNo.184)。

 それから朝倉神社の殉難慰霊塔だが、これは粟田小学校の校庭に移設された。そして今も、神龍湖畔にある慰霊碑とあわせて毎年清掃と慰霊の儀式が行われている。2023(令和5)年39日にも、亡くなった先生の銅板像の前で、現在の粟田小学校の56年生が「無事に卒業する」ことを報告する慰霊祭が開催されたとニュースで報じられている。

 ちなみに、その慰霊祭に参加した56年生の児童はたった6名だという。かつては40名もいた児童が少子化でここまで減っているわけで、地域から子供がいなくなればこうした慰霊行事も忘れられてしまうのではないかと、少し心配だ。

   ☆

 さて、事故のことを歌った浪曲のレコードが当時販売されたことは先述したが、その歌詞の一部が資料に載っていた。あくまでも浪曲の歌詞なので、歌われているのは事実そのものではないかも知れないが、これはこれでなかなか貴重な資料だと思う。せっかくなので最後に丸ごと掲載しておこう。なお、読みやすいように文章の配置などを一部改変している。

  (以下、浪曲『教育美談、魔の神龍湖』より)

 歎けど返らぬ夢をなんとしよう。明日おも知れぬ人の身よ。あわれ散果なき幼な子の、学びの庭のはらからが、やよいの空に勇み立つ、今日は楽しき遠足の日。

 時は昭和九年三月二十四日、広島県比婆郡東城町粟田尋常高等小学校卒業生男女四二名は、受持ち教師横山常夫、田辺キサヨの両訓導に引率され、備後の名勝帝釈峡に向かって、楽しい春の修学旅行の途につくべく校庭に集まり、校長先生の訓話を受け、父兄に見送られ校門を出ましたのが、丁度八時半でした。

 それは懐しわが母校の、門をくぐるも今日限りと、知るや知らずや幼な子は、勇み勇んで出でて行く。雨の降る日や風の日も、雪のあしたも霜の日も、通いつめたるこの道や、これも今日が見おさめと、神ならぬ身のつゆ知らず、急げば早くも粟田口、川西たんぼもつかの間に、物売る店も軒ならぶ、東城町もいつしかに、眺めも清き有栖川、水の流れもなみ方の、橋を渡れば久代村、折から空はどんよりと、勇み立つたる幼な児の、旅のさい先うれいてか、ぽつりぽつりの涙雨、空を眺めて両訓導、互いに見合わす顔と顔。

「田辺先生、困った天気になりましたねえ、どううしたらいいものでしょうか。」

「先生、どこかに電話でもあったら学校に連絡してみてはどうでしょうか。」

「よい事に気がつきました。この先の久代の役場に行って電話を借り、校長先生にお伺いしてみることにいたしましょう。」

 と、久代役場に急がれまして、電話を借り受け校長先生に、かくかくしかじかでありますと、電話をすれば校長先生からの返事では、雨天であれば止むを得ず、一時も早く引き返して、日を改めて出直すようにと、この由子供に告げたれど、勇み立ったる子供らに、両訓導の言葉が、素直に耳に入りましょうか。

「どうぞ、先生、連れて行って下さい。どうぞ先生、連れて行って頂戴よ。」

 はやる子供の声々に、いたしかたなく両訓導、校長先生に又も許しの電話をして、進まぬ心ひきしめて、さらばと急ぐ久代村、後に眺めて新坂の、峠越えれば三坂村、急げば早くも紅葉橋、橋の欄干に身をゆだね、写す姿も水鏡、これも此の世の見おさめと、神ならぬ身の露知らず、急げは早く池田茶屋、舟の用意も整えば、勇み立ったる子供らは、我も我もと舟に乗る。乗船終われば船頭さん、ぐっと一さお漕ぎ出せば、舟は次第に沖にでる。沖に出ずれば船頭さん、自慢の声をはりあげて、

〝沖でかもめの鳴く声聞けば、船乗り稼業がやめられぬ"

 舟は静かにすべり行く、間もなくくぐる紅葉橋、死出の旅路の五月空、五雲峡も目のあたり、心も浮いて晴ればれと、

〝ここはお国の何百里、離れて遠き滿洲の、赤い夕日に照らされて……"

 四方の景色を眺めつつ、笑い興じるおりもおり、

「先生、先生。」

「どうした、どうしたんですか。」

「舟に水が入ってきたんです。」

 なに!舟に水が、先生驚き近よれば、舟底一ぱい水が入ってきた。おーい船頭、舟に水が入っていると、叫べは船頭びっくり仰天、底板めくって見ればこわいかに。ええしまった。誰か早く手を借せて……、横山訓導着ていたオーバーぬぎ捨てて、水口しっかと押さえども……、ああいかんせん何としょう。折りが折りなら時も時、行き交う船の影もなく、入り込む水は刻々と、ほどこすすべさえ水の泡、横山訓導と船頭は、ここを必死と防げども、あわれや船は次第しだいに傾いて、あれよあれよと騒ぐうち、水は一寸二寸三寸、早や子供らの膝までびっしょりと浸ってきたる。悲しき声はそこここに、救いを求める幼な児の、中にあわれや女の子、田辺先生に取りすがり、先生助けてと、わめき歎けば両訓導、互いに顔を見合わせて、はらわた断ち切る思いなり。

「田辺さん!」「横山先生!」

「田辺先生!、もう駄目です。此の上はいたしかたありません。私達二人は命を捨てるとも、一人でも多くの子供を助けなくては、父兄に対して申訳はございませんぞ。」

「はい横山先生、よくわかっております。」

 言うより早く二方は、粟田の空に手を合わせ、お許し下さい親ごさん、多くの子供殺したる、罪はいか程重くとも、わたしら二人死んでお詫びをいたします。

「おーい子供ら早く裸になれ、そして泳げる者は早く飛び込め、泳げない者はこの先生に、すがれるだけ縋ってこい!」

 と、言うよりはやく横山訓導、そばに寄り添う子供らを、こわきにひっかかえ、ざんぶとばかり飛び込んで、抜き手を切って岸に向き、一生懸命泳いでゆく。後に残りし田辺サキヨ先生は、ほどこすすべも女の身、千に一つの救いをと、祈る心は神だのみ、天地に神々おわすなら、死するわが身はいとわねど、どうか幼い子供らをお助け下さいと、一生懸命神だのみ、ならくの底に沈みゆく、船べりに残る子らを縋らせて、浮きつ沈みつ波枕、かよわい女の力を何としょう。田辺訓導の娘やすえさん、親一人子一人というむつまじい仲、そのいとし子が水に溺れながら「お母さん」と、助けを求めて呼ぶ我が子をしかと見さだめ、許してくれよこれやすえ、ここでそなたを助けたら、世間の人は何と言う、あれ見よ田辺訓導は、親子の愛にひかされて、我が子救わんその為に、多くの子供殺したと、いつの世までも語り草、じゃけんな母と恨むなよ、そなた一人をやりはせぬ、死なば親子もろともにと、言う声さえも切れぎれに、教え子二~三抱きしめて、乱れし髪を見おさめに、悲しく消ゆる波の底、続いて横山訓導も、力は尽きて今は早や、一二の子等ともろ共に、悲しく消えて影もなし。

 ああ両訓導の最後こそ、命を捨てて殉教の、その真心は日の本の、教育界の亀鑑とぞ、長く後世にとどむらん。


【参考資料】
◆広島市神石郡友会『大正・昭和・平成のふるさと神石郡』
◆広島市神石郡友会『大正・昭和・平成のふるさと神石郡』(資料編)
◆NHK 広島のニュース

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◆八幡製鉄労働会館転倒事故(1958年)

  1958(昭和33)年1月30日のことである。

 この日は木曜日で、福岡県八幡市(現在の北九州市八幡区)にあった八幡製鉄労働会館で、美空ひばり歌謡ショーが開かれていた。

 このショーは複数回に渡って行われ、事故は2回目の公演と、3回目の公演の間で起きている。観客の入れ替え中に、建物の正面玄関付近が大混雑となったのだ。

 あまり詳しいことは分からないが、お客の入れ替え中に出入口が詰まったというのは、群集事故のパターンのひとつにはまったのかな、と想像できる。大方、2回目の公演後に帰ろうとする人と、3回目の公演のために入ろうとした人たちがかちあってしまったのではないか。しかも出入口は正面玄関ひとつだけだったのだろう。

 この大混雑の中で複数名が転倒し、うち3名が下敷きになって怪我を負った。一人は63歳の大人で(性別は不明)、肋骨を折り全治一カ月の重傷。また7歳の女の子と2歳の男の子も意識を失っているが、間もなく回復したという。

 事故そのものはシンプルで、これ以外の情報もないのであとは書くこともないのだが、ひとつだけ気になったのは、この現場となった八幡製鉄労働会館というのは一体どこにあった(今もある?)のか? ということである。

 資料では、八幡市の「仲町」という場所にあったというのだが、ちょっと調べてみても、同名の町名、あるいはかつての仲町にあたるような地域は見つからなかった。

 もしかして福岡県ではなく、別の都道府県の「八幡市」ではないだろうな……とも考えたが、資料によると、事故で怪我をした人の住所は当時の福岡県八幡市のものだったのでたぶん間違いない。

 さらにいろいろ調べていくと、どうも北九州市八幡東区尾倉という場所がそれっぽい。古い新聞では、このあたりの地域は仲町とか本町などと記載されたケースもあるようで、なんだか不思議である。

【参考資料】
太古の新聞記事など

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