2020年9月1日火曜日

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2018年1月12日金曜日

◆魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)

 1952(昭和27)年11月30日、午前5時57分のことである。

 福岡県小倉市(現・北九州市)の、魚町市場の屋根から炎と煙が上がった。発見したのは、現場から800メートル北西の望楼にいた勤務員である。彼はすみやかに通報し、ただちに消防隊が出動した。

 火災現場の「魚町市場」は、現在で言うところの「北九州の台所」、旦過(たんが)市場のあたりである。もともとこの地域は商業地域として賑わいのある場所だった(※当時の「魚町市場」という名称が、「魚町」の「市場」の通称だったのか、商業地域の公的な名前だったのかは不明)。

 しかし商業地域と言っても当時はあまり洗練されてはおらず、木造バラック造りの建物が密集しているような場所だった。1952(昭和27)年11月といえば、サンフランシスコ平和条約が発効してまだ日本が主権を回復したばかりの時期である。戦後の復興はまだ端緒についたばかり。急ごしらえの店舗は珍しくなかったということか。

 とにかくそんな場所での出火である、延焼は免れない。火炎は木造のバラック街を瞬く間に呑み込んでいった。早朝だったので、付近に全く人がいなかったのは不幸中の幸いだった。だが見方を変えれば、それで現場での発見通報が遅れたため「大火」になったとも言える。先述の望楼勤務員以外からの通報はなかった。

 この火災が、「魚町大火」として語り継がれることになる。そして、その焼け方がひときわ目立ったのが、現場に建っていた「かねやす百貨店」だった。

 かねやす百貨店――。これは、小倉市で史上二番目に開業した、由緒ある百貨店だった。

 その創業は江戸時代、文久年間に遡る。当初、創業者は米穀の取り扱いや金の目利きをやっていたらしい。その後慶応年間に魚町へ移り呉服商を始め、一族は長州戦争や明治維新などの動乱にもめげずに商売を続けてきた。

 そして、かねやす百貨店が建てられたのが1920(大正9)年3月のこと。最初は木造四階建てだったが、その後1936(昭和11)年11月に完成した新館は、当時としてはまだ数少ない鉄筋コンクリート製の耐火造だった。最初の木造四階建てを旧館とし、隣接する旧館と新館はひとつの建物のような形になった。これは、当時の小倉では最も高い建物だった。

 百貨店としては、井筒屋や菊屋と並ぶ代表的百貨店だった。老舗としての信頼感もあり、営業成績も順調だったようだ。

(なお、在りし日の建物や街並みはこちらで観ることができた)
http://isisis.cocolog-nifty.com/i/2016/07/post-1445.html

 さて火災発生当時、かねやす百貨店は、密集するバラック商店に隙間なく取り囲まれる形になっていた。このため、まず木造の旧館に延焼した。室内温度の急激な上昇により、こちらは「瞬時に」燃焼したという。

 消防隊が到着した時には、すでに市場全体が火の海。ちょうど、周囲の商店や百貨店にも火炎が拡がり始めたタイミングだった。

 火炎は強烈で、消火のために建物へ進入するなんてとてもムリ。そうこうしているうちに、かねやす百貨店の新館にも火の手が及んでいく――。耐火造の建物も、これほどの規模の火災では被害を受けるなという方が無理な話で、炎は各階へどんどん拡大した。

 ちなみに、かねやす百貨店、防火設備はどうだったのだろう? これは残念ながら赤点だった。防火シャッターがあれば、旧館から新館への延焼を防げたかも知れない。また防火区画がきちんと定められていれば、階段が煙突状態になって上階へ燃え広がることもなかったかも知れない。

 一方で、「消火」設備はきちんと整備されていた。もっとも、防火査察の際に夜間警備員の増強を勧告指導されていたにもかかわらず、火災当時は建物は無人だったので、実質持ち腐れになってしまったわけだが。

 こうして、かねやす百貨店は火炎に包まれた。そしてさらに周囲の木造バラック店舗にも延焼し、この火事は「大火」となったのだった。

 鎮火したのは、火災発見から2時間後の午前8時である。死亡者こそ出なかったものの、被災した建物は全部で51戸。このうち魚町市場では店舗22軒が全焼、2軒が半焼した。またかねやす百貨店の関係者も5人が負傷している。

 火災の原因は、完全には特定されていない。とりあえず出火場所は、魚町市場内の、かねやす百貨店に隣接する屋外通路のごみ箱と推定されている。当時はルンペンや泥酔者も多くいたし、たぶんそいつらの仕業だろう。たぶん煙草のポイ捨てだろう。そんな感じの結論でまとまったようだ。

 なお余談めくが、この火災現場のお隣である魚町三丁目の「魚町銀天街」では、2014(平成26)年2月6日に火災が発生し7棟が全焼、4棟が半焼した。テレビなどでもけっこう騒がれた気がするが、年配の方は、60年以上前に四丁目で起きた火災を思い出したのではないだろうか。

 さてかねやす百貨店だが、社員の努力により、火災から2週間後には営業再開したというから大したものだ。建物が全焼して真っ黒焦げになったのに、どうやって営業したのだろう……?

 しかし長くはもたなかった。2年後の1954(昭和29)年10月には閉店し、その後破産している。由緒ある地元企業だったが、ここに約100年の歴史に幕を下ろすこととなった。

 現在は、新館の建物が雑居ビル「ワシントンビル」として利用されており、中にはドラッグストア、カフェ、事務所などが入っているそうな。

 もうひとつ余談だが、実はこの建物には戦争遺構が残されている。防空監視哨である。戦時中、小倉市には、西日本最大級の兵器工場(小倉陸軍造兵廠)があった。それで周辺一帯が米軍の標的にされたため、近隣でも屈指の高層建築だったかねやす百貨店の屋上が、防空のための見張り場所に選ばれたのである。

 この防空監視哨、戦後長らく忘れられていたのだが、最近になって戦争遺構として「発見」されて注目を浴びた。資料の説明を読むと「この防空監視哨は……隣の立体駐車場などから見ることができる」と書いてあって、なぜかおいそれとは見せてくれないらしい。シャンシャン並みの扱いである。

◆特異火災事例
http://www.bousaihaku.com/bousaihaku2/images/exam/pdf/a002.pdf
◆「敵機見つける防空監視哨、今もビル屋上に 北九州中心街」(asahi.com2011年8月15日)
http://www.asahi.com/special/playback/SEB201108130075.html
◆コトバンク「魚町商店街火災」
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%9A%E7%94%BA%E5%95%86%E5%BA%97%E8%A1%97%E7%81%AB%E7%81%BD-897131
◆黒崎そごうメモリアル
http://isisis.cocolog-nifty.com/i/2016/07/post-1445.html
◆ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%82%84%E3%81%99%E7%99%BE%E8%B2%A8%E5%BA%97

2018年1月8日月曜日

◆ロックハート熱気球墜落事故(2016年)

 2016(平成28)年7月30日のことである。

 時刻は、アメリカテキサス州の現地時間で午前6時58分。スカイダイビングセンターから一機の熱気球が出発した。乗員は、パイロットが1名と乗客が15名である。青と紅白で彩られ、サングラスをかけたにこちゃんマークが描かれた、カラフルで大きな熱気球だ。

 ところが、これが墜落した。

 時刻は午前7時40分頃。墜落場所はロックハートという地域で、テキサス州の州都オースティンから南へ約50キロほどの地点だった。検索すると現場写真が見られるが、だだっぴろい農閑期の畑か草原のような場所である。英語版ウィキペディアでは「マックスウェル州の合併されていない地域」とあった。

 ロックハートは、レンガ造りの建物が多く景色のいい街だそうな。墜落した熱気球もオースティン周辺を観光するプランで遊覧飛行していたというから、全体的にきっと風光明媚な地域なのだろう。それにしても、人のいる場所に墜落しなかったのは不幸中の幸いだった。

 墜落の直接の原因は、火災だった。どうやら飛行中にゴンドラから出火したらしい。

 ルクソールでの墜落事故と違って、このロックハートの事故は、現場の写真でも気球の球皮そのものはほとんど燃えていないように見える。なので、おそらくゴンドラ部分で起きたトラブルが主な原因で墜落したのだろう。

 午前7時44分には緊急サービスに連絡が入り、墜落したゴンドラの捜索が行われた。

 これは、事故から間もなく、郡保安官事務所から出された声明である。

「現時点では、事故の生存者はいないものと思われる。事故現場に救急隊と保安官事務所職員が到着した時、火災は熱気球のゴンドラ部分で発生したように見えた。」

 事故の調査には、アメリカ連邦航空局(FAA)と運輸安全委員会(NTSB)も乗り出した。さらに連邦捜査局(FBI)までもが参戦するなど、大変な騒ぎになった。

 これほどの騒ぎになるのも無理はなかった。死者16名というのは、記録で見る限り熱気球事故としてはアメリカ史上最悪である。さらに言えば全世界規模で見ても第2位だ。テロの可能性…とまで言うのは大げさすぎるかも知れないが、当局が事態をかなり重く見たことは間違いなかった。

 さて、FBIによって、事故の残骸から14個の携帯電話やスマホが回収されるなど、現場では証拠物件が押さえられた。NTSBはこの事故を「大事故」に指定し、調査が続けられた。

 目撃者や関係者の証言も集められた。おそらく飛行中にだろう、銃に似た二度の破裂音があった…とか、気球は30分ほど連絡が途切れていた…とか、もろもろの情報を総合して出された結論は「送電線への接触による火災」だった。

 情報に乏しく、火災が起きてから墜落するまでの詳しい経過はよく分からない。とりあえず資料の文章のニュアンスからして「送電線に接触→ゴンドラで火災発生→ゴンドラ燃え尽きる→電柱に衝突→そんなこんなで操縦不能→墜落」みたいな感じの流れだったのではないかと思われる。

 ではなぜ、送電線に接触したのか。

 その原因は「パイロットの判断ミス」で片付けられたようだ。墜落直前、熱気球は霧や雲の上を飛行し続けており、気球の下に障害物があっても発見や回避は困難だったという。だいぶ危険な状況だったのだ。

 ちなみにこのパイロットは、事故を起こした気球遊覧飛行を企画した会社の社長だった。彼はうつ病とADHDを併せ持っており薬も服用していたのだが、熱気球の操縦に際して診断書は必要なかったらしい。彼のそんな病状も、判断力低下の原因と見なされたようだ。社長を失ったこの企画会社は、8月には操業を停止した。

◆熱気球で起こった恐怖の事故10選
 http://share-ranking.com/archives/1784/4
◆AFPニュース
 http://www.afpbb.com/articles/-/3095800
◆PIXLS
 http://pixls.jp/I0000529
◆めら☆そく
https://mera.red/x%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%82%B9%E6%B0%97%E7%90%83%E4%BA%8B%E6%95%85
◆ウィキペディア
 https://en.wikipedia.org/wiki/2016_Lockhart_hot_air_balloon_crash

2018年1月3日水曜日

◆余はいかにして2017(平成29)年の目標を達成していないか

 明けましておめでとうございます。

 当ブログ恒例の「目標振り返り」です。2017(平成29)年の目標とその達成状況を振り返ってみます。

 結果は以下の通りです。3段階評価で印をつけました。

【執筆活動】
×「超能力カメラマン内木」シリーズ(→完結を目指す)。
△『囲碁の娘』(→電子書籍化を目指す)
△「九院高校文芸部シリーズ」の新作執筆(使い道は?)
△人物小説
△料理小説
〇文学賞応募用の作品
△『事故災害研究室』
×『殺人鬼幻想先生』
×『蠍の歌』
△「九院高校文芸部シリーズ」の続編(加筆)
×妖怪小説、秋田県小説
(〇は達成できた。△は、作成方針だけ漠然と考えていた。)

【金銭】
〇借金を、年間で8万円埋める。
(ぜんぶ埋めた!!)

【読書】
△月に10~15冊は「読了」する。
(「読了」の定義が自分でもよく分からなくなってきた。最後まで読まなくても、ちょっとだけ目を通せば読んだつもりになれるような本もあった。)
×月に1冊は専門書をこなしたい。
(夢のまた夢。)
〇本棚の「積ん読」本に、もっと構ってあげる。
(これは意識的にやった。)

【仕事】
△仕事を持ち帰らない(持ち帰るのは機械的にできることだけ)。
(ときどき禁を破らざるを得なかった。)
△文章を書く仕事は職場で済ませる。
(同上。)
△残業しない。
(同上。)
〇無理しない。
(ストレスによる大病はせずに済んだ。)
〇もっと効率化する。
(細かいところから大きなところまで、効率化進行中。)
△手を抜かない。
(ときどき力を抜いた。もうそれでいいやと思う。)
〇誠実に。
(可能な限りできたと思う。)

【健康】
×・トレーニングジムで80冊本を読む。
(要するに「年間80回通って一回一冊本を読む」という意味だったけど、前者は達成して後者は駄目だった。)
〇更年期障害?気力・体力不足の克服もしくは治療。
(気力・体力の衰えという現象とのバランスの取れた付き合い方が分かってきた気がする。)

 これを踏まえて、2018(平成30)年の具体的な目標をこれから決めます。

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2017年10月21日土曜日

◆ルクソール熱気球墜落事故(2013年)

 エジプトのルクソールで、現地時間の2013(平成25)年2月26日に発生した事故である。観光用の熱気球が、爆発と火災で墜落したのだ。

 ルクソールは、エジプトの超有名観光地である。首都カイロからナイル川沿いに南東へ約650キロ、王家の谷やカルナック神殿、ハトシェプスト神殿などの名所がずらりと揃っている。

 事故を起こした熱気球は、こうした観光名所を上空から一望するためのもので、運営していたのはスカイ・クルーズ社という地元企業。後からは何とでも言えるが、もともと現地では「危ない会社」と言われていたとか。

 当日、熱気球に乗り込んだのは、アジア・ヨーロッパの各国から訪れた観光客19名と、地元エジプト人の乗員2名。時刻は午前6時頃だったようだ。筆者は、こういう観光の一般的なスケジュールをよく知らないのだが、ずいぶん早朝から人が動くらしい。

 少し細かい話をすると、事故が起きたのは、ほとんどの参考資料の中で午前6時半と書かれている。だが日本経済新聞の記事にだけは、午前7時と推測できる形で書いてあった。ただこの記事は、情報が曖昧なままの状況で書かれたっぽいので、午前6時半説の方が正しい気がする。

 というわけで午前6時半のこと。遊覧飛行を終えた熱気球が、着陸のために高度3~7メートルまで降下したところで、ゴンドラの中で火災が発生した。

 火災の原因はガス爆発だった。着陸直前にゴンドラから投げ下ろされたロープが、ガス用のホースに引っかかるか何かしたのだ。ロープは、本来ならば、地上にいる者が熱気球を引き下ろすために使われるはずだった。

 もともとこの熱気球は、ボンベから供給されるガスを4つのバーナーで燃やし、熱したその空気で浮き上がる構造だった。だがホースが外れたことでガスが漏れて引火、爆発したのだ。

 この、最初の爆発だけで一気に燃え広がったようだ。奇跡的に助かった操縦士の男性は、ホースが切れた次の瞬間には火炎に襲われ、最終的には全身の7割に及ぶ大火傷を負っている。彼はその時、乗客たちに「ジャンプ!ジャンプ!」と飛び降りるよう促したという。

 気球は急上昇した。火災のため、気球内の空気が一気に温められたのだ。この時点で、既に気球本体にも炎が及んでいた。

 高度10メートルまで上昇したところで、乗員乗客のうち3名がゴンドラから飛び降りている。先述した操縦士の男性と、観光客のイギリス人男性2名だ。後者のうち1名は怪我を負い、もう1名は死亡した。

 黒煙を上げながら、気球はさらに上空200メートルまで上昇。コントロールは完全に失われており漂流状態だったという。この間にも8名の乗客が次々に飛び降りた。
 
 ゴンドラが軽くなったことで、気球はさらに300メートルまで上昇した。当時撮影された動画がネット上に残っているが、それを見ると、この上空300メートルに到達した時点でゴンドラは完全に炎に包まれていたようだ。程なく、全焼した気球は一気にしぼんで墜落した。

 墜落したのは麦畑である。途中で飛び降りた8名も、ゴンドラに取り残された10名も助からなかった。先述したイギリス人男性を含め、最終的な死者は19名。中には日本人4名も含まれていた。

 一命をとりとめた操縦士の男性は、乗客を救助することなく、いち早く逃げた形である。よって事故直後の報道では、彼を非難する声もあったようだ。その後、彼は過失致死容疑で逮捕された。

 とはいえ、最初のガス爆発が起きた直後、現実的に彼が人命救助を行い、なおかつ乗客たちが脱出をはかるような余裕があったかどうか、ちょっと微妙な気もする。気球は急上昇しながら小爆発を繰り返していたというし、これは筆者の推測だが、上空200メートルから8名が飛び降りたのも、炎から逃れようとするための行動だったのだろう。気球の墜落というショッキングさが際立つ事故だが、爆発と火災の威力も相当なものだったと思われる。被害者たちの死因は何だったのだろう?

 この事故を受け、エジプト政府は調査委員会を設置して原因を調査。当時の民間航空相は「再発防止策が取られなければ、気球の運航は再開しない」と述べたそうだ。それから4年経った現在はどうなっているのだろう。

 ちなみに、熱気球による死亡事故は、このルクソールのものが史上最悪である(2017年10月現在)。その前は、1989(平成元)年にオーストラリアで熱気球同士が衝突し13名が死亡したのが最悪だったが、ルクソールのはこれを超えた。

 ところでエジプトでは、2011(平成23)年のエジプト革命でムバラク大統領が退任し、モルシ大統領に替わったという経緯があった。観光産業の安全管理が甘くなったのはそのせいではないか、という説もある。いわく、各分野での管理者が軍人から文民に替わったため、安全の監査が緩くなったのではないか…ということだ。

 しかし、この説がどの程度まで妥当なものかは分からない。モルシ大統領側も、安全体制の緩みは前政権の負の遺産だと反論しているし、そもそもルクソールでの熱気球ツアーでは、2009年と2008年にも、それぞれ16人と9人が負傷する事故が起きている。もともと熱気球というものは事故る確率が高いのかも知れないし、あるいはそういう土地柄なのかも知れない。

 土地柄ということで言えば、革命で統治者が軍人から文民に替わるという状況自体が、我々日本人から見れば剣呑である。やや余談じみるが、ルクソールでは1997(平成9)年11月17日に、テロで外国人旅行者など63名が殺害される事件も起きている(被害者のうち10名は日本人)。これは当時のテロリストが、地域の観光業にダメージを与えて政府転覆に繋げようとしたものらしい。

 別に、エジプトの観光関係者の安全管理がみんないい加減だとか、人命を軽視する風土だとか、そこまで言うつもりはない。ただ、海外にツアー客として出かけた場合、多人数で行動する場所では、事故れば大惨事になるし、テロリストによる派手な大量殺人の標的になることもある。そういう可能性を踏まえた慎重さは必要だ…ということくらいは言えると思う。そうした危険を可能な限り回避するには、やっぱり勉強が必要なのだ。

 このあたり、ツアー客が事故に遭遇することの現状と展望については、吉田春生『ツアー事故はなぜ起こるのか』(平凡社新書2014年)が興味深い。この本の中でも、熱気球の事故の危険性の高さについては、もともとツアー関係者の間でも共通の認識だったということが書かれている(ちなみにルクソールで事故った熱気球ツアーは、ツアーの本来のスケジュールとは無関係の、現地で申し込みをするオプショナルツアーだった)。

 余談ついでだが、この事故の遺族は、スカイ・クルーズが契約していた保険会社から、補償として一応お金を支払われている。だがその額は被害者一人につき7万円程度だったそうな。もともと、人間ではなくゴンドラの方に掛けていた保険から下りたお金だったので、それくらいになったらしい。やり切れない話だ。

 海外に行くときは、気を付けよう。

 ましてや熱気球に乗るならなおさらだ。

【参考資料】
◆吉田春生『ツアー事故はなぜ起こるのか』平凡社新書、2014年
◆CNN.co.jp「エジプトで熱気球墜落、日本人含む外国人観光客ら死亡」(2013年2月26日付)
https://www.cnn.co.jp/world/35028785.html
◆日本経済新聞「気球から次々飛び降り エジプト墜落、出火後に急上昇」(2013/2/28付)
https://www.nikkei.com/article/DGXNZO52234680Y3A220C1CC1000/
◆AERAdot「気球事故、遺族へはわずか7万円 海外ツアーのリスク」(2013.3.4付)
https://dot.asahi.com/aera/2013030400038.html
◆NEVERまとめ
https://matome.naver.jp/odai/2136200422042064701
◆NewSphere
https://newsphere.jp/world-report/20130227-8/
◆J-CASTテレビウォッチ
https://www.j-cast.com/tv/2013/02/27167118.html?p=all
◆ウィキペディア

2017年5月21日日曜日

◆小勝多摩火工爆発事故(1953年)

 1953(昭和28)年2月14日のことである。東京都北多摩郡府中町貫井(現在の府中市晴見)の「小勝多摩火工府中工場」で、その事故は発生した。午前10時30分、火薬配合室といういかにも物騒な名前の部屋が、作業中に吹っ飛んだのだ。

 どぼずばああああああん。

 ちなみにこの工場の名前に含まれている「火工」というのは、弾丸に火薬を詰める作業や、その作業員のことを差す言葉である。そんな工場で爆発が起きたのだから、ちょっとやそっとの被害で済むわけがない。3000坪の敷地内にあった他の火薬倉庫にも次々に引火し、大爆発と相成った。

 これにより、工場の事務所、薬品倉庫、炊事場など、敷地内の合計14棟の建物全てが巻き込まれ、火災も発生。周辺の建物もとばっちりを受け、半径一キロ以内にあった都営稔ヶ丘住宅の民家や関東医療少年院などが、窓ガラス・屋根・壁・雨戸などを破壊される憂き目に遭った。

 爆発当時は24名が工場にいた。しかし生存者はたったの4名しかおらず、さらに一般市民1名も巻き込まれて死亡した。

 大事故だが、事故の直接の原因は不明である。何せ、現場の火薬配合室にいた全員が爆死してしまったのだから致し方ない。

 とはいえ、原因を想像するのはさほど難しくなかった。当時の作業員の中には素人が混じっていたのだ。この工場では、保安隊(現在の自衛隊の前身)からの依頼で、大砲の射撃訓練に使う「擬砲弾」なるものを作っていたのだが、近所の主婦などがその作業にあたっていたのである。

 恐ろしい話だが、朝鮮戦争が休戦協定に至るのは、この事故から数か月後のことだ。この頃は特需も下火になっていたものの、それでも軍事関係の工場は人手が足りなかったのかも知れない。

   ☆

 ちなみに、この事故をウィキペディアで調べてみると不思議なことに気付く。当時の府中町で発生した、他の2つの爆発事故の事例と一括りにして「小勝多摩火工爆発事故」と名付けられているのだ。

 なんでそんな括り方なのか、理由は不明である。正直、腑に落ちない。記事の中で紹介されている他の2つのケースは、花火工場の爆発事故であって「火工爆発事故」に該当するものではない。

 編集者がテキトーにやったのか、あるいは素人には分からない理由があるのか。

 というわけで、他の2つの花火工場の爆発事故については、当研究室では別稿でご紹介したいと思う。一応、ここで名前を挙げておくと「丸玉屋小勝煙火製造工場爆発事故」である。1956(昭和31)年と1958(昭和33)年に、同じ工場で爆発が起きている。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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2017年5月11日木曜日

◆イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)※加筆修正しました

 この「イノバシオン百貨店火災」は、以前にも一度ご紹介している。

 その時は岡田正光氏の『群集安全工学』だけを参考にしたのだが、このたび、同じ著者の『火災安全学入門』という著作に、より詳細な内容が載っているのを見つけた。よって加筆修正して改めて公開することにした。

 つまりイノバシオン百貨店火災は、まったく違うテーマの2冊の本に跨って紹介されているわけだ。このことからも、この事故が火災+群集事故のコラボによって大惨事に至ったことが分かる。しかもデパート火災としては、世界一の死者数である。

   ☆

 1967(昭和42)年5月22日。ベルギーの首都・ブリュッセルにあるイノバシオン百貨店は、大勢の人でにぎわっていた。

 この百貨店は1919(大正8)年に創立。当時のベルギーの大手百貨店のひとつで、RC造6階建て、延床面積は9,500平方メートル。従業員は1,200人おり、パリにも店舗があったというから、かなりイケイケである。 

 時刻は13時半頃。店内には約2,500名のお客がいたと考えられている。特に、4階の食堂は350席あるテーブルがほぼ満席だった。

 日本人の感覚だと、「えっ、なんで昼休みの時間を過ぎてるのに食堂にそんなに人がいるの?」と思うところだ。どうも、ベルギーの生活時間というのはラテン系だそうで、それで13~15時が昼休みになっているのだとか。

 ここで火災が起きる。火元は2階だった。婦人服売り場の、天井近くにぶら下がっていた少女服のあたりが燻っていたのだ。発見したのは女性店員だった。

 いけない、火事だわ――! この店員は30メートル離れた消防センターという場所に行き、粉末消火器を持ってきた。周囲には紙製の吊り天井もあり、燃えやすいことこの上ない状況である。早く消火しなければ――。

 だが、時すでに遅し。この時点で、もはや消火器程度では手に負えないほどに燃え広がっていた。

 そこで彼女は消防センターに戻り、火災報知器と非常ボタンで火災の発生を知らせた。時刻は13時34分。初期消火も火災の報知も全部ひとりでやったのだから、大変お疲れ様である。

 この後、非常ベルで事態に気付いた2人の自衛消防隊員が、消火栓からホースを伸ばして消火にあたったりもした。しかし彼らの奮闘もむなしく、炎も煙もひどくなる一方。従業員たちは退却せざるを得なかった。

 火炎はどんどん延焼した。火元の近くに、吹き抜けと階段とエレベーターがあるという、ただでさえ伝播しやすい状況だったのに加え、当時は店内にポスターや旗などの燃えやすい飾りが多くあったという。「アメリカ週間」と銘打ってバーゲンセール中だったのだ。

 煙は、5~6分で全館に拡がった。信じられないほどの速度である。

 この建物、消防設備はしっかり整備されていた。消火栓96箇所、消火器450個、煙感知器144個、押しボタン式警報装置60個が設置されており、また消防専従の職員も16名いたという。頼もしい限りだが、資料によると、従業員がこれらの設備を利用してどのような行動をとったのかについては「何をしていたのかよくわからない」らしい。おそらく、炎と煙の伝播が早すぎて、気付いた時にはもはや消火どころではなかったのではないか。

 ただ、店員たちは避難誘導はかなりしっかり行っていた。これについては後述する。

 中には、明らかな不手際もあった。13時半には、従業員の交代を知らせるベルが鳴っており、34分に鳴った非常ベルも同じものだと勘違いした従業員がいたのだ。彼は、騒ぎ始めたお客を「なんでもない」となだめたという。

 13時40分に消防の先発隊が到着した。この時、既に2階以上は煙に包まれており、おそらく最上階にあったのであろう「吹き抜けのドーム」なるものからも煙が出ていたという。つまり天井に穴が開いたのだ。いわゆる煙突作用で、ますます火勢は強くなっていった。

 1階にいた人たちは、全員無事に脱出した。中にはマネキン人形で窓を破った人もいたというから、それなりに難儀もしたのだろうが、とにかく死者は出なかった。

 問題は2階より上である。特に4階の食堂がやばかった。出火当時、この食堂がほぼ満席状態だったことは先に記したが、ここで260名が死亡することになる。

 この食堂について、もう少し詳しく書いておこう。ここはセルフサービス方式だった。お客は入口から一列で食堂内に入り、カウンターで好きな料理の皿を取って代金を払う。そして食後は、食器をコンベアに置いて出口から退出するというシステムである。

 この、入口と出口が問題だった。どちらも狭い上に一つずつしかなかったのだ。そこで濃煙が室内に進入してきたものだから、お客たちは一気にドアへ殺到。結果、多くの人が人混みに遮られ、食堂を脱出する前に煙あるいは有毒ガスを吸うことになった。

 イノバシオン百貨店の死者数は325名。うち8割が、この4階の食堂で死亡したことになる。死因は、大部分が窒息死。参考資料の言葉を借りれば、死者たちは食堂内で「袋のねずみ」状態だったという。

 一方で、当時4階にいたものの助かった人もいた。部屋の隅に避難用のハシゴがあり、そこから25名が脱出している。また、事務室を通って難を逃れた者や、外に飛び降りた者もいたという(もっとも、4階から飛び降りた全員が無事だったとはちょっと考えにくいが)。

 つまり、一応4階でも避難は不可能ではなかったのである。だが、助かった人によると、当時は猛煙で1メートル先も見えない状態だったという。よっぽど最初から避難ルートを心得ているか、あるいは幸運に恵まれなければ、脱出は難しかっただろう。

 その他、参考資料には当時の悲惨な状況がいろいろ書かれている。パニックに陥った人々が、避難通路に殺到して折り重なって死亡したとか、バルコニーから12名が次々に飛び降りたとか、衣服に火がついて逃げ惑う人々がいたとか……。ただ、具体的にどの光景がどの階で見られたものなのかは不明である。

 気が滅入るような大惨事だ。だが救助された人も大勢いた。例えば、2階のバルコニーに避難した約200名は、ハシゴ車で無事に助けられている。また店員や消防隊員の中には、窓ガラスを破って突入したり、火傷も厭わずに熱く焼けた階段を通り、人々を救出した猛者もいたという。隣接するビルのオーナーが、ロープを投げて約20名を救助したとか、消防隊が建物の下で救助幕を広げた時に多くの市民が協力したなどのエピソードは、美談と言ってもいいだろう。

 そして、この百貨店の店長は殉職している。お客を非常階段へ誘導して25名を助けた彼だが、この誘導のために何度も往復しているうちに店内で死亡したのだ。

 この他、従業員たちも上役の指示で避難誘導に努めたというから、非常時に備えた社員教育はきちんとしていたのだろう。

 さて、そうこうしているうちに、いよいよイノバシオン百貨店は崩壊し始めた。まず15時15分に、先述した吹き抜けドームが大音響と共に崩れた。さらに16時頃には、食堂のあるブロックも以下同文。大百貨店は数時間で焼け落ち、その残骸からは夜になっても火炎が上がっていたという。

   ☆

 それにしてもイノバシオン百貨店、何故これほど呆気なく焼け落ちたのだろう。消火設備はきちんとしていたのに、「いとも簡単に」と言っても差し支えないような焼けっぷりである。

 参考資料によると、この建物が造られたのは、百貨店の創立よりも約20年前の1901(明治34)年だった。さらに1904(明治37)年以降、5回にわたって改築が行われ、ツギハギの増築がなされている。これにより、全体の構造の統一性に欠けるところがあったようだ。

 詳しく記すと、本館は6階建てでRC造とSRC造が混在。中央部は最上階まで吹き抜けになっており、てっぺんはガラスの屋根がスライドして開くようになっていた。1~5階が売り場で、地下1階は倉庫と従業員用の控室。そして6階は管理部門である。これに、さらに4つの建物がくっついており、こちらはRC、鉄骨、レンガ作りが混在していた。

 で、ここまで書いておいてなんだが、筆者は建築の専門家ではないので、こうした構造にどういう問題があったのかはよく分からない。わざわざ資料に書かれているくらいだから、きっと何か問題があったのだろうと推測できる程度だ。

 ちなみに事故から遡ること31年前には、国立火災予防協会のブルーウェル氏(誰?)が、既にこの建物の危険性を指摘していたらしい。参考資料にも、竪穴としての階段とエレベーターが区画されていれば、これほどの大惨事にはならなかっただろうと記されている。それが本当なら、実にやり切れない。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
◆ウィキペディア

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