事故災害研究室・目次

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2023/06/17 【加筆修正】岡山県真庭バス踏切事故

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◆戦艦「リベルテ」爆発事故(1911年・フランス)

  『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』で紹介されている爆発事故である。

 世界初の無煙火薬である「プードルB」の危険性については、1907年に起きた戦艦「イエナ」の爆発事故の中で説明した。今後は、同じプードルBによって引き起こされたもう一つの戦艦爆発事故だ。

 1911929日のことである。

 フランスのツーロン港に停泊していた戦艦「リベルテ」は、1908年に竣工した戦艦で、地中海艦体に所属する前弩級戦艦だった。

 で、当日停泊していたリベルテの弾薬室にはいくつものプードルBが保管されており、これが案の定自然発火した。

 前方の弾薬室から、黄色い煙がもくもくと噴き上がる。大変ヤバイ状況だった。このままでは火災の高温で鉄製弾薬棚が溶けてしまい、そこにある何百発もの火薬に引火するだろう。

 艦長は、艦尾にいる被害対策班の動員を発令。機関長と砲術長にこう命じた。

「火災が起きている弾薬室に海水を注入しろ」

 命じられた二人は、ただちに海水バルブを開けに行く。しかしバルブは当の弾薬室の真上にあり、火炎と煙と小爆発がひどくて前に進めない。

 彼らは決死の覚悟で二回バルブへの接近を試みたが、いずれも失敗した。弾薬室は喫水線よりも下にあるので、バルブさえ開けば海水が流れ込んで消火できるはずだった。さぞもどかしかったことだろう。

 そのうち艦内は停電し、海水バルブがある下層甲板部分は真っ暗になった。どうしようもない状況で、機関長と砲術長は仕方なく艦長のところへ戻って報告する。

「とても無理です。バルブに近づくこともできません」

 しかし艦長は二人を罵った。

「バカモノ、すごすぐ引き返すとは何事だ。いかなる犠牲を払ってでも、現場に戻って任務を完遂せよ!」

 仕方なく、二人は再度弾薬室へ向かう。彼らは二度と帰ってくることはなかった。リベルテの艦体の前方三分の一が、ここで爆発して吹き飛んだのである。

 

 どぼずばああああああん。

 

 ウィキペディアでは、リベルテはこの時「事故により爆沈」とあるので沈んでしまったのだろう。爆発によって吹き飛んだ37トンの装甲板も、200メートル離れた場所に停泊していた戦艦「レピュブリク」にぶつかって大きな被害を出したという。レピュブリクにとってはとんだとばっちりだった。

 この爆発事故で、上述の機関長と砲術長を含む約200名が死亡した(艦長がどうなったのかは不明)。同年103日には、当時の大統領隣席のもとで国による葬儀が行われている。

 現在では、この大惨事は「予見可能で回避できた」とみられている。それもそのはずで、別稿で紹介した「イエナ」の事故を含み、プードルBによる海軍での爆発事故はそれまでにも複数回起きていた。またこの頃になると、同等の性能でより安全性の高い火薬も容易に入手できるようになっていたという。

 つまり、プードルBはこの時すでに時代遅れのブツであり、リベルテの爆発は危機管理上のミスによって発生したものだったのだ。ざんねんな事故である。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
◆ウィキペディア

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◆戦艦「イエナ」爆発事故(1907年・フランス)

  プードルBによって起きた事故である。

プードルはかわいい

 と、いきなり言われて「プードルBってなんじゃらほい、犬?」と、きょとんとしている読者諸君の顔が目に浮かぶ。実際、ただ単に「プードルB」と検索しても犬しか出てこない。まさか、この可愛い名前のブツが非常に危険な火薬のことだとは想像もつくまい。

 プードルBが発明されたのは1886(明治19)年のことである。作ったのはポール・ヴィエイユというフランス人化学者で、彼はこれによって当時の新型火薬だったニトロセルロースを安定化することに成功。歴史上初の無煙火薬の誕生で、それまでの火薬よりも強力だったことから軍事的にも重宝された。

 ちなみにプードルBのプードル(Poudre)はフランス語で「粉」のこと。またBはやはりフランス語で「白」を意味するブランシェ(Blanche)で、つまりプードルBは白い粉のことである。B火薬とか、発明者の名前をとってヴィエイユ火薬と呼ばれることもあるとか。

 ところがこのプードルBには欠点があった。貯蔵すると劣化し不安定になり、自然発火するのだ。これは時間が経つと、揮発性の高いアミルアルコールが放出されて窒素と混ざり合うためらしい。そうすると、低温でも引火しやすい亜硝酸アミルが生じるのだ。

 ……と、したり顔で説明しているが、お気付きの通り参考資料の受け売りである。だから間違った説明になっているかも知れない。とりあえずここでは、プードルBという火薬は自然発火することがある、とだけ覚えておけば十分である。

 1902(明治35)年に竣工したフランス海軍の戦艦「イエナ」が、このプードルBの発火によって爆発事故を起こしたのは1907312日のことである。

 まず34日、イエナはトゥーロンという港町のドックに入渠した(ドックとは大型船が入る施設のこと)。目的は船体の整備と舵軸の調査のためである。

トゥーロンの港町
 イエナはそこでしばらく停泊していたが、12日の昼過ぎに左舷100mm砲の弾薬庫で爆発が発生したのだった。

 どぼずばああああああん。

 この爆発は午前135分から245分の間まで続いた。爆発によって破壊されたのはイエナだけではなく、その周辺もだいぶやられたようだ。隣のドックに入っていた戦艦シュフランは、爆風にあおられて転覆寸前のところまでいっている。

 周辺に水があればよかったのだが、悪いことにそこは「ドライドック」で水がなく、火元の弾薬庫に注水できない。

「やばい、なんとかしろ!」

 そこで鎮火を試みたのが、近くに停泊していた戦艦「パトリエ」である。

「よし、俺に任せろ。ゲートをこじ開けてドックに水を流し込んでやる」
「一体どうやって?」
「砲撃に決まってるだろ」

 なかなかのびっくり大作戦である。パトリエはドックの門を砲撃し、そこから注水して浸水させようとしたのだ。しかしパトリエの砲弾ははじき返されて失敗した。みんな、さぞガッカリしたことだろう。

 その後、どうやったのかは不明だが、注水はド・ヴェソ・ルー(de Vaisseau Roux)少尉によって行われている。だが少尉は飛んできた船の破片に当たり殉職している。おそらく命がけの注水作戦だったのだろう。

 こうしてイエナは破壊された。この事故では民間人2名を含む120名が死亡した。

 イエナの艦歴はなかなかのものだったようだ。フランス領北アメリカの港を訪問したり、フランス大統領がイタリア国王を訪問する際に観艦式に参加したり、ベスビオ火山の噴火時にはナポリ救援のために派遣されたりしている。

 しかし、さすがにこの爆発事故で使い物にならなくなったのか、1908年には「標的艦」として砲撃訓練などの標的に用いられている。そして1912年にはスクラップとして売却された。

 それもこれも、弾薬で使用されていたプードルBのせいである。このイエナの一件は火薬スキャンダル(l'affaire des poudres)と呼ばれ、当時の海軍大臣は辞任する羽目になった。

 プードルBによる戦艦爆発事故はこれだけではなく、1911年にも「リベルテ」が砕け散っている。これについては稿を改めて説明したい。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
◆ウィキペディア

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◆ハンガリー炭酸製造会社爆発事故(1969年)

  『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』という本がある。

 著者はジェームズ・R・チャイルズ。チャイルズと言っても、ファミコンゲームの名作『チャイルズクエスト』とはもちろん何の関係もない。この本では世界のさまざまな事故事例がさらっといろいろ紹介されており、中にはスリーマイルアイランドの原発事故やチャレンジャー号の爆発事故など、事細かに解説されている事例もあって読んでいて飽きない。

 で、この『最悪の事故が起こるまで~』の冒頭で挙げられているのが、1969(昭和44)年にハンガリーで発生したというすさまじい爆発事故である。

 本で読む限りでは本当にすさまじい、想像を絶する事故なのだが、どちらかというとマニアックな事故事例に入るらしくググッてもなかなか情報が見つからない。皆無ではないが、ほんの数行程度だ。

 また『最悪の事故が起こるまで~』でも、冒頭で簡単に経緯が書かれている程度である。それでもないよりはマシなので、これに依拠しながらご紹介しよう。

 

   ★

 

 1969(昭和44)年11日に、この事故は起きた。

 場所はハンガリーのレプツェラクという場所である(このレプツェラクという地名自体、検索しても出てこない。なんなんだ?)。ここには、天然ガスから二酸化炭素を取り出して販売している炭酸製造会社があった。

 この会社には、アンモニアによって冷却されている巨大タンク四基と小型ボンベがあり、両方に液体二酸化炭素が貯蔵されていた。

 ここで、液体二酸化炭素について簡単に説明しておこう。と言っても、筆者もよく知らないので単なる知ったかぶりだが。

 液体二酸化炭素とは、要するにドライアイスの「もと」である。

 知っての通り、二酸化炭素は通常は気体である。が、これに強い圧力をかけると液体になる。これが液体二酸化炭素で、さらにこれを空気中へ急激にブシューッと噴出させると、今度は一気に圧力が下がって、気化熱と急激な膨張によってすぐに凍結し、固体になる。

 この段階では、凍結した二酸化炭素はまだ「雪」のようなものである。これをプレス機などで圧縮するとドライアイスになるのだ。この圧縮のやり方によって、さまざまな形のドライアイスを作ることが可能になる。

 我々の最も身近にある液体二酸化炭素といえば、生ビールの押出し用に使われる緑色のボンベだろう。あれには液体二酸化炭素が詰まっており、外に出てくる時はおよそマイナス60度の状態になっているのだ。

 さて先述の通り、このレプツェラクの工場では、天然ガスから二酸化炭素を採取していた(副生ガスからも二酸化炭素は取れるらしい)。ところで、こうしたガスはプラントに到着した時点では僅かな水分を含んでいるもので、これは取り除かなければならない。しかし、ガスにたまたま水分が残ることもある。そうなると、計器や機器、残量計や安全弁まで凍結してしまうこともあったという。

 素人の解釈だが、液体二酸化炭素はとても冷たいから、一緒になっていた水分も凍ってしまうということだろう。

 ここまで見ただけでも、この工場のボンベにはとても恐ろしいものが詰まっていたことが分かる。

 ちなみに、水に炭酸ガスを入れたいわゆる「ソーダ水」の大量生産が可能になったのはハンガリーが最初らしい。なんでも当地ではワインを炭酸水で割る飲み方が好まれているそうで、それだけ炭酸水および炭酸ガスは需要というか作り甲斐があるのかも知れない。

 この工場では11日の深夜に操業を開始した。その中で、オペレーターが「Cタンク」なるタンクへ液体二酸化炭素を送る操作を行っている。これは参考資料によると「液体二酸化炭素をたくわえておくボンベが足りなくなった」ことが理由だったそうで、ここらへんの因果関係はよく分からない。

 問題は、オペレーターが液体二酸化炭素を送り込んだ「Cボンベ」が、およそ30分後に爆発したことである。前日の1231日にプラントを閉めた時には、各タンクには少なくとも20トンの液体二酸化炭素が入っていたというから、タンクはすでに満タン状態だったのかも知れない。ここらへんの詳しい錯誤の内容や原因も定かでない。

 とにかく「Cタンク」は爆発し、その破片によって「Dタンク」も破裂してしまった。

 どぼずばああああああん。

 ここからがピタゴラスイッチである。二基のタンクが爆発したことで、まず周囲にいた四名が死亡。さらに「Aタンク」も基部固定ボルトから外れてしまい、直径約30センチの穴が開いた。すると今度は、その穴から高圧の液体二酸化炭素が噴出し、なんと「Aタンク」はロケットよろしく地上から飛び立ってしまったのだ。

 離陸したAタンクは建物の壁を突き破り、大量の液体二酸化炭素が洪水のように床にまかれた。

 これにより、近くにいた五名が瞬間冷凍された上に、室内の温度は摂氏マイナス78度まで低下。たちまち部屋中が壊れた冷凍庫のように分厚いドライアイスで覆われ、もはや呼吸するのも不可能な状態となった。漫画『ワンピース』のヒエヒエの実の能力者による技「アイスエイジ」のような状態が、現実世界に出現してしまったのである。

 瞬間凍結してしまった五名は無事だったのだろうか……。だがとにかく最初に述べた通り、この事故はこれ以上詳しい情報がないので、その後のことはまるきり不明である。そもそも事故が起きた会社名すらも分からない。モヤモヤする話だ。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
ドライアイスのつくり方は?│コカネット
炭酸ガスのつくられ方|一般社団法人日本産業・医療ガス協会
炭酸ガス圧力調整器 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社
炭酸ガス容器の特徴 CO2 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社

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◆東海道線「列車見送り客」接触事故(1938年)

 日外アソシエーツの本で『昭和災害史事典』という、まるで当研究室のために書かれたとしか思えないシリーズが存在している。

 筆者の手元には1996年発行の第二版があり、時間があるとパラパラ眺めたりしている。事典なので、書かれているのは各災害の名称と簡単な説明だけなのだがとにかく興味深い。

 で、そのうちの「①昭和2年~昭和20年」編を紐解くと、1938(昭和13)年1月に発生したという、日付も分からない鉄道事故が紹介されている。引用すると、以下の通りだ。

 

東海道線列車見送り客接触事故(愛知県西春日井郡西枇杷島町)
1月、愛知県西枇杷島町で、出征兵士を見送ろうとした客が国鉄枇杷島駅近くの線路わきに集まった際、東海道線の列車にはねられて30名余りが死傷した。

 

 分かるのは、これだけである。30名余りが死傷したというほどだから大惨事なのだが、発生した日付も、正確な死傷者数も不明というのは奇妙な話だ。もちろんググッてもこの事故の情報は一切見当たらない。

 引用した『昭和災害史事典①昭和2年~昭和20年』の編集後記にも、この期間に発生した災害は記録の発掘が難しいとあった。

 また戦争末期にもなると、言論統制化・戦時下という特殊な状況だったため、報道管制などによって公表されなかったものもあるという。

 上記の事故の詳細な情報が不明である理由が何なのかは分からないが、簡単に記録が見つからないのも仕方ないことなのかも知れない。

 もちろん情報が揃っている事例はできるだけきちんと執筆するつもりだが、これからはこういう詳細が不明な「小ネタ」もどんどん出していこうと思う。

【参考資料】
◆日外アソシエーツ『昭和災害史事典①昭和2年~昭和20年』1995

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◆明石市歩道橋事故(2001年)

序文

 2001(平成13)年に、兵庫県明石市の朝霧歩道橋で起きた群集事故は、事故災害事例の中でも「超」がつくほど有名なものである。

 こういう、有名すぎる事例はかえってルポにまとめにくいところがある。三河島事故や飛騨川バス転落事故について書いた時も同じ感じがしたが、「みんながとっくに知っているものを、今さら自分が書いてもなあ」という気持ちになるのだ。

 それに、ネットで情報が溢れかえっているし、公開されている事故調査報告書も非常に分量が多いので気持ちも重たくなる。そんなわけで、いつか書こうと思っているうちにかなりの時間が経ってしまった。

 とにかく、好きなように書いてみたのが本稿である。

 

日本で唯一の? 「群集雪崩」

 世の中では、それまで専門用語として一部の界隈でしか使われていなかった言葉が、ある事故災害の発生を境に急に一般化し始めることがある。

 例えば、2009(平成21)年に発生したトムラウシ山での遭難事故で「低体温症」という言葉が唐突に使われ始めたと思ったら、いつの間にか「凍死」という言葉に取って代わるようになった。厳密に言えば低体温症によって凍死に至るということなのだが、とにかくその意味では、2009(平成21)年は「低体温症元年」とでも言える年でもあった。

 また、これと同様に、「心肺停止」という言葉が使われ始め、定着するきっかけになったのは2014(平成26)年に発生した御嶽山の噴火災害だったと思う(うろ覚え気味だが)。つまりその年は「心肺停止元年」でもある。

 そして、明石市歩道橋事故が起きた2001(平成13)年は「群集雪崩元年」である。筆者の記憶が正しければ、群集雪崩という言葉が最初にメディアで使われ始めたのはこの事故の時だったはずだ。

 それまでも何度か起きていた群集事故は「将棋倒し」という言葉で表現されることがほとんどだった。ところが明石市の事故の発生によって、急に我々は群集事故に関するボキャブラリーを増やし、解像度を上げることになった。それくらいこの事故は衝撃的であり、画期的なものだったのである。

 また、「将棋倒し」という言葉は将棋に対する悪いイメージを植え付けるからということで、日本将棋連盟が抗議した経緯もあるらしい。それでマスコミとしても、「将棋倒し」にかわるキーワードを必要としたという事情もあったのかも知れない。「群集」という不気味な言葉と「雪崩」という恐ろしい言葉の組み合わせはインパクトも抜群でちょうどよかったのではないだろうか。

 そんなこんなで、今ではこの群集雪崩という言葉もかなりカジュアルに使われるようになった感がある。だがしかし、実際には、群集雪崩はちょっと人が集まったからと言ってすぐに発生するような現象でもない。

 むしろ、ちょっと人が集まる程度の場所では、今でも群集雪崩より将棋倒しの方がよっぽど恐ろしいと言えるだろう。群集雪崩という言葉はカジュアルに使われるようになったため、かえってその実態が見えにくくなっているとも言える。本稿を読むことで、少しでも読者諸氏の解像度が上がれば幸いである。

 とにかく、この明石市歩道橋事故は日本の群集雪崩事故の先駆けと言える事例である。いやむしろ、先駆けというよりも、今のところ群集雪崩が発生したケースとしてはっきり認められている事例は、日本の災害史上この事故だけだと言ってもいい。

 ただこの、「日本の災害史上でこれ以外に群集雪崩は起きていない(確認されていない)」という事実が、群集雪崩への理解の妨げになっているのも事実である。なにせ史上唯一の事例であることからも分かる通り、再現性がない。かといって実験するわけにもいかない。これもまた、実態が見えにくくなっている要因だと言えるだろう。この分かったようで分からない、掴みどころのない感じもまた、ルポを書くことを長らく躊躇していた理由のひとつだ。

 その分かりにくさの原因だった疑問が、ある程度解けた気がしたのは2022(令和4)年にソウルで起きた群集事故がきっかけだった。そのことについては、項を改めて詳しく書きたい。

 

現場となった「朝霧歩道橋」

 さて、事故の現場となったのは、タイトル通り「明石市の歩道橋」である。より詳しく言えば兵庫県明石市の、JR山陽線・朝霧駅からほど近い「朝霧歩道橋」だ。

 この歩道橋は、同市の大蔵海岸と朝霧駅を結ぶ形になっていた。歩道橋の北側に駅があり、南側に海岸があるという位置関係だ。

 ↓朝霧駅のリフレクション写真(上に見えるのが朝霧歩道橋)

 事故当時は、この歩道橋の南側にある大蔵海岸で「第32回明石市民夏まつり」が開催されていた。10万人規模のお祭りである。

 このイベントは、もともとは明石市役所の周辺で行われていたのだが、会場が手狭になったため、場所を変更することになったのだった。で、新しい開催地として選ばれたのが、観光用の開発が進められていた大蔵海岸だった。世界最長の長さを誇る明石海峡大橋もあるし、これ以上の盛り上がりスポットはない。

 そこで1998(平成10)年にもここでイベントが行われたのだが、この時は特に問題がなかった。

 ただしこの時、まだ朝霧歩道橋は存在していなかった。その後、2000(平成12)年から2001(平成13)年にかけてのカウントダウンイベントが行われた時はもう朝霧歩道橋も完成しており、この時はトラブルが発生したのだが、それについては後述する。

 さて、それで2001(平成13)年の夏まつりである。このイベントでは、特に電車でやってきた来場者たちは、朝霧駅から歩道橋を通って海岸へ行き、花火を見物したら今度は海岸から歩道橋を通って駅へ戻る……という動線で移動することになる。

 往路もしくは復路で、もしも大勢が一気にこのような動線で動けば歩道橋が大混雑するのは自明の理である。あるいは、会場へ行こうとする人々と、駅へ戻ろうとする人々が歩道橋の上で衝突した場合も同様だ。この、二つの「自明の理」が現実になってしまったのがこの事故である。

 

朝霧歩道橋の難点

 事故現場となった歩道橋について、もう少し理解を深めておこう。

 この歩道橋はJR山陽本線・山陽電鉄線の二本の鉄道と、国道2号線・同じく28号線・そして市道48号線の三本の道路をまたぐ形で設置されていた。

 全長は103.7メートル、幅8.4メートル。このうち人が歩ける部分の幅は6メートルである。朝霧駅から来た人はまず階段を上り、直角に右折して6メートルの通路を渡って北から南へ向かうことになる。

 で、渡った先には約75平方メートルの踊り場があり、そこでまたほぼ直角に右折。今度は幅3メートルの階段48段を下りて地上に到着し、歩道を歩いて海岸へ向かうという流れになる。

 この事故で問題になるのは、上記のうち「幅6メートルの通路」と「約75平方メートルの踊り場」と「幅3メートルの階段」である。

 事故発生のメカニズムという観点から考えた場合、この橋には次のような二つの構造上の問題点があった。

 

【問題点①ボトルネック構造】
 前項の説明でイメージできると思うが、この歩道橋は、南端の「約75平方メートルの踊り場」を境に、通路が急に狭くなる。

 何せ、それまで通路の幅が6メートルだったのが、踊り場を抜けると幅3メートルの階段を下りることになるのだ。歩行者にとっては「海岸に向かって進むとだんだん狭くなる」という構造だったわけだ。

 いわゆるボトルネック構造である。

 

【問題点②半トンネル構造】
 橋の通路には高さ約3メートルのアーケード状の屋根が設置されていた。またポリカーボネイト製の壁もついており、これによって利用者は横風から守られるし、橋上からの落下物なども防げるという造りになっていた。

 つまり、朝霧歩道橋はトンネル状の形をしていたわけである。

 実際には、屋根に大きな開口部があるので完全なトンネルではないし、壁の板も透明なので視界は利く。純粋なトンネル構造ではなく、「半」トンネル構造とでも呼べるだろうか。よって普通に利用する分には、決して狭苦しさを感じさせるものではない。

 しかし、ここでひとたび大混雑が起きれば、中にいる人は息苦しくもなる。また、壁と屋根の存在によって半ば閉鎖空間と化していたため、何かあっても外部に向かって救助要請が届きにくいという難点もあった。

 また、これも後述するが(さっきから勿体ぶってるようで恐縮だが)、群集雪崩と、その前兆になりやすい群集波動現象という二つの現象は、開放されている空間ならちょっと考えられないような超・過密状態で発生する。朝霧歩道橋が、壁の存在によって逃げ場のない造りになっていたことも、群集雪崩発生の遠因となった。

 

 と、以上の内容をざっくり踏まえて、事故発生当時の状況を時系列で辿っていこう。

 念のためお断りしておくと、以下では「半トンネル構造の歩道橋で少しずつ人間がぎゅうぎゅう詰めになって大惨事に至る」経緯を辿っていくことになる。

 いたずらに凄惨な書き方をするつもりはないが、もしも読んでいて途中で息苦しく感じたら――あるいはそうなる恐れがある方は――さらっと読み流す程度にした方がいいと思う。

 実は筆者は、最初に資料を読んだ時に動悸が激しくなってちょっと大変だった。

 

事故発生の経緯

18:00
 この頃、朝霧歩道橋はまだ空いていた。もっとも、朝霧駅のホームはすでに大混雑で、ともすれば通過列車に巻き込まれてしまいそうな状況だったとか。

 それでも、改札を出てしまえば混雑と言えるほどの状態ではなく、歩道橋を歩いていてもたまに肩が触れ合う程度だったという(筆者としては、肩が触れ合うだけでもなかなかの混雑という気がするが。どこもかしこもスカスカの山形県に住んでいるからか?)。

 

18:15
 歩道橋が混雑し始めた。朝霧駅方面から、花火会場に向かう人々が入ってきたのだ。

 混雑の理由は、大勢が流入したからというのもあるが、まず大きな理由のひとつは上述のボトルネック構造のためだった。6メートルの通路を抜けると、下りる階段の幅がいきなり半分の3メートルになってしまうという造りのため、渋滞が起きたのだ。

 またもうひとつ、階段を下り切ったところの歩道に夜店が軒を連ねていたのも問題だった。橋を下りた人たちがそこで立ち止まるものだから、輪をかけて渋滞がひどくなったのだ。

 それでもまだ、歩道橋は自由に歩ける状況だった。

 ちなみにこの頃、周辺を警備していた警備会社の担当者は、「これはヤバイんじゃないか」と入場制限の必要を感じて警備本部に連絡している。しかし返事はこうだった。

「警察の許可がないと規制はできないから」

 だったら警察の許可を取ればいいじゃないか、と思うのだが、まだそこまでするほどじゃないという判断だったのだろう。というわけでこの時は、警備会社の担当者は入場制限の措置を取ることを諦めた。

 

18時半頃
 朝霧駅のホームは大混雑の状態だった。

「皆さん、花火会場へはあちらの歩道橋をご利用ください。人混みは少しずつ動いているので、通れますよ」

 警備員は群集にそうアナウンスする。人々は当然これを信じるので、歩道橋の中は急激に混雑の度合いが増していった。もしかすると、当時会場を訪れたカップルなどはこんな会話をしていたかも知れない。

「なんかすごく混雑してるけど、迂回路とかないの?」

「あることはあるんだけど、ちょっと分かりにくいんだよね。歩道橋を渡っていった方が分かりやすいよ」

 これは想像上の会話だが、そういう事情もあって、警備員は迂回路を案内しなかったようだ。

 しかし、前述した歩道橋のボトルネック部分は全く改善されていないので、相変わらず出口がふさがった状態である。

 だがそれでも、この時はまだ、歩道橋は自由に歩くことができた。と言っても、後のぎゅうぎゅう詰めの状態からみれば「比較的」自由が利いたという程度である。

 

◆18:5019:10
 歩道橋の混雑はますますひどくなる。先ほどは警察から入場制限の許可をもらうことを躊躇した警備会社も、さすがにこれはヤバいと危機感を抱いて明石署に連絡した。

「朝霧駅のあたりで、花火会場へ向かう人を制限できませんか? 群集を一気に受け入れるのではなく、一定の人数ごとに分けて、断続的に入場させるんです」

 え、本当にそんなヤバイ状況なの? というわけで19時頃、連絡を受けた明石署から二名の署員が状況確認のため派遣されてきた。

署員「ああ、確かにすごい人混みですね。でも歩道橋では、人はちゃんと流れてるんですよね?」
警備会社の社員「そうなんです。ですから入場制限しませんか」
署員「うーん、だけどそれをやっちゃうと、今度は朝霧駅が混雑します。駅のホームから人があふれるかも知れないのでそれも危険ですよね」
警備会社の社員「じゃあ規制しないんですか?」
署員「とにかく人は動いているので、様子を見ましょう」

 後に発生する大惨事のことを知っている我々からすれば、何を悠長なことを言ってるんだ! と感じるところだ。だがもともと、明石署では雑踏整理に重きを置いていなかった。彼らが警戒していたのは群集よりも暴走族やケンカだったのである。

 また、当時は「歩道橋の人数が一定人数を超えたら進入規制を発動する」という決まり事もあったらしい。歩道橋の人々をどうやって数えるのか、またそれならどうして大惨事になる前に進入規制は発動されなかったのか、などの疑問はあるが、ともあれこの時は結局、進入規制は行われなかった。相変わらず、人々は朝霧駅から歩道橋へとどんどん流れ込んでいった。

 

◆19:2535
 やっぱりどうやって数えたのかよく分からないのだが、この頃には歩道橋の人数が1,800人を突破した。これは、進入規制を発動する想定人数を超える数字だったらしい。

「隊長! 朝霧駅の方は非常に混んでいます。危険な状態です」

 警備会社の隊長は、19:25頃にこのような連絡を受けた。そこで隊長は明石警察の「地域官」なる人に相談したが、この地域官もやっぱり「人は自然に流れているので、このままいきましょう」と判断。またしても、進入規制は見送られてしまった。

 だがこの時、例のボトルネック部分を中心として、歩道橋の南側では大変なことになっていた。自然な流れどころか、歩道橋の中央あたりでは渋滞が発生していたのだ。

 歩道橋は人々の肩が触れ合うくらい密集し始め、これによる酸欠・気温上昇のダブルパンチで不快指数が増していった。

 それでもこの時、この渋滞をどうにかしようという話にならなかったのは、人の流れが完全にストップしていたわけではないからだ。

 

◆19:45
 歩道橋の中央から南は、すでに超満員の電車のような状態だった。

 そこで、19:45に花火の打ち上げが始まったからたまらない。かろうじて動いていた人々も、一発打ち上がるたびに足を止めて花火に見入るものだから進み幅はだんだん狭くなり、橋の混雑はひどくなる一方だった。

 特に、下りる階段の手前にある踊り場のあたりは花火を見るには絶好のポジションだった。いわばそこは展望デッキのような場所で、昼間であれば美しい大蔵海岸が一望できた。

 それに加えて、何度も書くがボトルネック構造である。南の階段は歩道橋の半分ほどの幅しかないので、駅側(橋の北側)から流入する人々に比べて、海岸側(南の階段)から海岸へ下りていく人々の数は圧倒的に少ない。で、階段を下りてもそこは夜店が並んでいるので、当然立ち止まる人たちも大勢いる。歩道橋も、その下の歩道も人混みでごった返している状態だった。

 群集事故の恐ろしい点のひとつに、「群集の後ろにいる者は、前方の異常な状態に気付かない」というものがある。まだこの時点で事故は起きていなかったが、この歩道橋でも、前方の様子が分からないため、駅側からこう叫ぶ者もいたという。

「花火が終わってしまうやろ。進め」

 これに同調する者もいたのだろう、駅側からの圧力は増していった。

 そしていよいよ、人の流れが完全にストップしてしまう。

「隊長、歩道橋の人の流れが止まりました」

 警備員が隊長へ連絡した。これを受けて、隊長ももう一度明石署の警察官に連絡を入れる。

「もう、このままでは危険です。通行を制限しましょう」

 しかしこれも答えはノー。

「通行制限は花火大会が終わった後でいいでしょう」

 明石署では、混雑がひどくなるのは帰り道なので、通行制限は花火大会が終わった後でいいと考えていたのだ。

 しかし、このあたりから、既に歩道橋の人々は身の危険を感じ始めていた。大人たちの中には、息苦しくなって天を仰ぎ喘いでいた人もいたという。また、ベビーカーを押していた人も、人々の圧力によってベビーカーがきしみ始めたため、急いで畳んで子供を抱きかかえたり、高く掲げたりしている。

 大人はともかく、力の弱い子供にとっては非常に危険な状況だった。ある親は、手すりと壁の間に子供を入れて避難させ、なんとか群集の圧力から逃れさせようと試みている。また、そこに自ら入り込む大人もいた。

 しかし、そこも完全な安全地帯ではなかった。その場所にまで圧力が加わり、親たちは壁のボードに手をついて空間を作り、子供を必死に守らなければならなかった。

 人々に挟まれた子供は泣きわめき、怒号や、助けを求める声が歩道橋の中に響き渡る――。後に、この時の状況について、端的に「地獄のようだった」と証言する人もいる。

 この頃、ボトルネック部分の群集の密度は13/m²以上に達していたと考えられており、もはやこの時点で既に惨劇である。

 変な言い方になるが、この時に転倒事故が起きていたら、この群集地獄に押し込められた人々はもっと早く解放されていたかも知れない。しかし人々は、この状態のままでさらに一時間ほど耐えなければならないのだった。しかも「この状態で」とは言っても、状況はさらに悪化していくのである。

 

20:03
 歩道橋の状況に危険を感じた警備員が、また警備会社の隊長に連絡を入れた。

「陸橋はもう、人が動かない状態です。後から入ってくる人をストップさせて下さい」

 で、隊長は明石署の地域官に相談する。

「歩道橋への人の流入を止めましょうか」

 これに対して、地域官は「いま現場を見に行かせている」「情報を取っている」と返事をしただけで、 結局ここでもまた、入場規制の許可は下りなかった。

 

◆20:21
 花火大会が始まって30分が経過したあたりで、いよいよ歩道橋やその周辺からは「身動きができない」と異常事態を訴える110番通報が相次いで寄せられた。

 しかし通信の混雑と電波状況の悪さなどから、救急要請の電話が通じないことも多かったという。

 花火は8時半に終了するものだから、相も変わらず後からきた人たちは「早く進め」と叫ぶ。歩道橋の状況は一向に改善せず、群集の圧力は増すばかりだ。

 しかも、ここでとどめの一撃とでも呼ぶべき事態が発生した。花火が終わる10分前くらいになると、多くの人々がもと来た朝霧駅へ戻るために一斉に北の方角へ動き始めたのだ。

 つまり、それまでは朝霧駅側(北側)から群集の圧力がかかっていたところに、今度は逆方向の海岸側(南側)からも圧力がかかり始めたのである。正反対の方向からの人の流れが、歩道橋上で衝突してしまったのだ。

 弥彦神社事故やラブパレード事故のパターンである。目的地へ行こうとする人々と、目的を果たして帰ろうとする人々がかち合ったわけだ。

 押している方はいいかも知れないが、真ん中で板挟みになっている人々はたまったものではない。両方向からの押し合いが始まり、歩道橋の上の人々はもはや身動きできず、にっちもさっちもいかなくなった。

 

◆20:28
 花火大会が始まって45分以上が経過する頃には、携帯電話からの119番通報が相次いだ。ただ、この時はまだ怪我人が出たという話はなく、混雑のせいで体調を崩している人がいるという内容がほとんどだったという。

 そこで、明石市消防本部の通信指令室から第5救急隊に救急出動の指令が出されたが、この指令もピントがずれていた。「朝霧駅ロータリーへ救急出動せよ」というものだったのだ。この時は相変わらず電波状況が悪く、通報を受けた時に具体的な場所をうまく聞き取れなかったのだ。

 で、救急隊は朝霧駅へ出動したものの、怪我人はどこにも見当たらなかった。それもそのはず、混雑しているのは駅ロータリーなどではなくその上の歩道橋だったのだ。

 しかし想像するだに恐ろしい話である。救急隊が「怪我人はどこ?」とキョロキョロしている間に、その頭の上の歩道橋では大勢の人々がぎゅうぎゅう詰めになっていたのだ。

 この時、歩道橋には約6,000人が閉じ込められていたと見られている。

 ちなみに朝霧歩道橋の交通量がピークに達するのは78月で、その時期には一日で7,200名が通過することが想定されていた。この、ピーク時の一日の交通量に近い人数が、当時の歩道橋ではひしめき合っていたのである。

 

◆20:30
 ようやく約3,000発の花火の打ち上げが終了して、 歩道橋の南端で花火を見ていた人たちも動き出した。

 このあたりの、人々の温度差もちょっとよく分からないところがある。この時、歩道橋から呑気に花火見物をしていた人たちは、自分たちの背後で危険な大混雑が起きていることに気付いていなかったのだろうか? どんな気分で花火を見物し、「さて帰るか」と反対に歩き出したのだろう。

 一方の歩道橋内は、相変わらず一平方メートルに13人以上が押し込められる異常な超過密状態が続いていた。

「戻れ!」
「子どもが息できない」

 子供の泣き声や怒鳴り声が飛び交い、中には失神する人や、体が宙に浮いてしまう人もいた。南階段の下には警官がいるのだが、歩道橋の半透明の壁を叩いて助けを求めても気付かれない。

 どうも全体像を眺めてみると、警備会社の警備員たちはかなり早いうちから歩道橋の異常な状態に気付いていたが、明石警察署の方は一貫して関与を避け続けていたようだ。この頃、朝霧駅にいた警備員の一人は歩道橋への人の進入を阻止しようと試みている。しかしままならず、駅前にいた五名の警察官にこう頼んだ。

「歩道橋が大変なことになっている。子どもが窒息しそうになっているから何とかしてくれ。助けてあげてほしい」

 しかしこれは無視されたという。

 ともあれ花火が終わったこともあり、警備会社もようやく明石署から許可を得て、駅から歩道橋へ入ろうとする人たちの規制を始めた。しかし時既に遅し。ちょっと規制したくらいでは止められないほどの大混雑だった。中には、

「通行規制? ふざけるな! もたもたしてたら露店が閉まる」

 などという罵声を浴びせる輩もいたとか。それもこれも、警察官の手助けがなかったせいだ。民間の警備会社は、人々に対する強制力を持ちあわせていないのである。

 ところで、歩道橋ですし詰めになっていた人々も手をこまねいていたわけではない。やがて、自分たちで何とかしようとする動きも出始めた。

「駅方向へ戻って下さい!」

 まず、このように駅から来た人たちへの呼びかけが行われた。また、

「あかん。みんな戻れ!」

 という叫びに合わせて、駅方向(歩道橋の北側)と海岸方向(歩道橋の南側)のそれぞれの方向に向けて、大勢が掛け声を上げている。

「戻れ! 戻れ!」

 このコールを聞いて、実際に引き返す人もいたという。しかし、既に超過密状態になっていたところでは、目立った効果はなかったようだ。

 現場にいた人々は、当時の状況をこう回想する。

「『何をしているんか』『前へ進まんか』という声がした」
「何度も押されて息ができなくなり、足が宙に浮いて意識がなくなった」
「つま先立ちから片足立ちになり、さらには両足が浮くようになって、失神する人もいた」

 そして惨劇が起きる。

 

20:3020:50

 惨劇の発生

 人々が転倒したタイミングについては、多くの資料が20:4020:50の間だったとしている。ただ、中には20:30頃に既に発生していたとするものもあり、当研究室ではどっちも採用して20:3020:50ということにしておきたい。

 この歩道橋での群集の転倒は、一か所で一気に起きたのではなく、時間を空けて二か所以上の場所で発生したらしい。またここまでの経緯を見ても分かる通り、現場は大混乱だったので、いずれにせよ、それぞれの転倒が何時何分に発生したかを正確に記憶している人は誰もいなかっただろう。

 さてこの時点で、朝霧歩道橋では約6,400名がぎゅうぎゅう詰めの状態になっていた。この状態だけでも既に相当ヤバかったわけだが、本物の惨劇の予兆はこの時訪れた。密集した人々に、どこからともなくジワッとした波のような圧力がかかったのである。

 これは専門用語で群集波動現象という。この現象の詳細についても後述するが、簡単に言えば群集がかなりの高密度状態になった時に発生する現象で、個人の意志に関係なく群集が東西南北に「揺れ動く」のだ。

 個人の意志とは無関係なのだから物理現象と言ってもいいのかも知れないが、人間の群集の中でのみ発生するものなので、純粋に物理現象と呼ぶには少し違和感がある。そんな現象である。

 ともあれ、この「揺れ動き」は四方八方から発生して、これで圧迫されたことで失神した人もいた。また身長の低い者は圧迫され、背が高い者はつま先立ちや片足立ち、あるいは浮き上がり気味になり、斜めになりながら耐えている状態になる。

 何人もの人の体重が加算されたことで、この時は一メートル幅あたり約400キログラムの力がかかっていたと考えられている。

 そして事故が発生する。この「揺れ動き」によって、人々のバランスが崩れて転倒が起きたのだ。

 ここで素朴な疑問として「なんでぎゅうぎゅう詰めの密集状態なのに、転倒するほどのスペースができるの?」と感じる人もいるかも知れない。

 実は筆者もずっとこの点が疑問だったのだが、どうも群集波動現象による揺れ動きで隙間ができてしまうらしいのだ。このあたりの理屈は最近までほとんど説明されていなかったのだが、2022年に韓国で起きた梨泰院での事故によって、ようやく少しだけ解説されるようになった。

 なんにしても、6,400名が押し込まれたぎゅうぎゅう詰めの空間とか、その人々が一斉に東西南北に揺れ動く群集波動現象とか、未経験の素人には俄かに想像がつかない恐ろしい話である。

 超過密状態の間は、それはそれでバランスが取れていた。しかし、群集波動現象をきっかけとする転倒が発生したことでバランスが崩れ、いわば「転倒の連鎖」が起きてしまった。

 両足が浮き上がるほどの超過密状態のなかで、支えあっていた群集のもたれあいが崩れて誰かが倒れると、そこに隙間ができる。すると、その空隙に向かってさらに周囲の人間が吸い込まれるように折り重なって倒れ込む。こうした転倒は、将棋倒し・あるいはドミノ倒しの場合とは異なり「内部崩壊型」「陥没型」などと呼ばれることもあり、人々の転倒が円形あるいは楕円形に拡がっていくのが特徴である。

 これが、明石市歩道橋事故で一躍有名になった「群集雪崩(ぐんしゅうなだれ)」だ。

 群集密度が少なくとも10/m²以上の高密度にならないと、このタイプの転倒は発生しないとされている。

 多くの資料では、20:45頃から50分を過ぎるまでの10分ほどの間に、群集雪崩は歩道橋内で少なくとも二回発生したと考えられている。

 まず最初に、中規模程度の転倒が起きた。この時は死者が出るほどの大惨事には至らなかった。

 二回目の転倒が起きた場所は、歩道橋の南端から5メートルあたりの地点である。目撃者の証言によると、ここで倒れた人の山は高さ1.5メートル、幅5メートル、奥行き78メートルに及び、人の山はおむすび型だったという。

 計算すると、これには300400名が巻き込まれたと推定される。転倒した人々は歩道橋のシェルター部分の南端から北の方向に奥行25メートル、東西6メートルの広い範囲に分布していた。

 書くだけでも痛ましい話なのだが、この転倒が始まった最初のきっかけは、一人の子供がうずくまったことだったという。

 これは想像だが、その子はそれまでの圧迫によって失神するなどしており、それが群集波動現象によって発生した空隙に倒れ込んでしまったのかも知れない。それが引き金となり、バランスを失った周囲の人々も折り重なっていったのではないか。

 

証言

 ここから先は、『群集安全工学』に載っていた、事故に巻き込まれた人たちの生々しい体験談の引用である。当時の生々しい状況の証言なので、苦手な人はとばしてもらった方がいいかも知れない。

「足を上げると、もう下ろすスペースはなかった。後ろからガンと押されて倒れた。押し潰されて死ぬと思った」「つま先立ちでまわりの人と一緒にせり上がるような格好で身体が浮き、次第に傾いて倒れ込んだ。頭の上から何人もの人がかぶさってきて息もできず、もうダメだと思った」

「キャーという甲高い女性の悲鳴が聞こえた瞬間、20数人が倒れたのをきっかけにして倒れ込みが始まった」

「前後に数回揺れた後、次つぎに倒れ始め、沢山の人が乗りかかってきて一番下になった。息ができず死ぬと思った」

「目の前でおばあさんが倒れ、その上を人が次々に踏んでいった」

「足の下に真っ白な人の顔がみえ、ぞっとした」

「気を失ったが、頭を蹴られて気がついたら、上に10人くらいの人が乗っており、足の感覚がなくなってきた」

「足元をすくわれるように、仰向けで身体をくの字にして倒れた。双方からの圧力で、三重にも四重にも重なって倒れた。十数人が一気にというより、じわじわと倒れていった」

「身動きができない状態で、息子の姿が見えなくなったが、探すこともできない。足の上に人が乗っていて起き上がれない。ようやく起き上がって何人かを助け起こすと、その下に青い顔で息をしていない7才の息子を発見、口をつけて人工呼吸した」

「子供や小柄な人は押されて倒れ込み、その上に周囲の大人が覆いかぶさって下敷きになる。すると隙間ができて支えを失ったまわりの人びとが次つぎに折り重なって倒れ込んだ」

「手摺の中の子供は押されて仰向けになり、大勢の人に乗られて死んだと思ったが、運び出されて何とか意識を取り戻した」

4歳の息子に『じっとしとくんやで』と言い聞かせて安全と思った壁と手摺の間に入れた。強い圧力で内臓が飛び出しそうな感じ。足が浮いてスローモーションのように傾き、意識がもうろうとなって息子を見失った。倒れ込んできた何人もの人の下から、身体をひねって足を抜き、手摺の中の息子を見つけて救出しようと手を伸ばしたが、さらに強い衝撃で34mはじき飛ばされた。折り重なった人を助け起こすと、89人目の男性の下に息子が横倒しになっていたが眼は半開きで、顔は紫色であった」

「『子供が死んでしまう』『子供だけでも助けて』という叫び声と悲鳴」

4歳の娘は押される度に『グェー』と呻きながら何度も白目をむいて気を失った」

「下敷きになっていたのは、ほとんどが子供で、意識を失って人形のようだった」

「四方八方から捻れるように倒れ込んだ」

5人も6人も折り重なった」

「倒れた人の山が大人の高さほどあった」

「数メートルもはじき飛ばされた」

 

警備の動き

 同じ頃、時刻は20:40あたり。それまでにも、歩道橋内の混雑を訴える110番通報は29本にのぼっていたのだが、警備本部に駆け込んできた中年の男性がこう訴えたのだ。

「中がむちゃくちゃや、電話しても通じん。どないかせんかい!」

 もしかするとこの男性は、親族が事故に巻き込まれていたのかも知れない。

 警備本部は、ここでようやく歩道橋内でとんでもないことが起きているのに気付いたのだった。

 ちょっと前後関係がよく分からないのだが、歩道橋で群集雪崩が起きる直前には、警備員や明石市職員、それに機動隊が南階段の下に駆けつけて人の出入りを封鎖していたようだ。

「一方通行です。上がれません」

 警備員ならびに市職員が、南階段から上ろうとする人々を制する。しかし彼らは、心ない人々から蹴りやタックルなどの暴行を受けた。

 そして事故発生である。この時、機動隊はバリケードを作って南階段と歩道橋南側にあったエレベーターを封鎖していた。そこで大規模な転倒事故が発生したという報せを受け、機動隊の隊長はこう指示を出した。

「盾を置いて負傷者を救出しろ」

 もともとぎゅうぎゅう詰めだった群集をかき分けての救助活動である。それがいかに困難だったかは想像に難くない。ともあれ機動隊員、市職員、それに一般市民も加わっての救助活動が行われた。

 現場で転倒に巻き込まれた人の中には、なんとか自力で脱出できた人もいた。しかしほとんどはしばらく倒れたまま動けなかったという。

 

◆2102

 歩道橋の北側にいた消防職員から、無線で明石市消防本部へ集団災害対応要請が送られた。

「負傷者が多数あると思われる。国道28号に救急車の出動要請」

 これを受けて消防本部は「第一次集団災害」を発令。2107分には「第一次救助救急災害出動指令」も発動している。

 こうして、ようやく歩道橋とその周辺の混雑は解消されていったのだが、群集雪崩による転倒で死者は11名、重軽傷者は247名(222名とも)に及んだ。亡くなったのは子供と高齢者ばかりで、10歳未満が9名、70歳以上が2名という内訳だった。

 

2002年(平成14年)7月12日に事故現場へ設けられた慰霊碑「想」(Wikipediaより)

「群集雪崩」とは

 先に書いた通り、この事故で発生したのは「将棋倒し」や「ドミノ倒し」などと呼ばれる現象ではなく「群集う雪崩」だった。後に作成された市の事故調査報告書でも、そのような結論が出ている。

 さて、それでは改めて「群集雪崩」とは何なのか。

 この明石市歩道橋事故によって、群集雪崩という言葉そのものはすっかり有名になったので、わざわざ改まって説明する必要はないんじゃない? と考える人もいるかも知れない。

 群集雪崩と聞いて多くの人がイメージするのは、超過密状態で支えあっていた人々の中に隙間ができて、その隙間に向かって周囲の人間が吸い込まれるように倒れ込む現象のことだろう。実際、筆者も先にそう書いたし、ネットで検索してみてもそういう説明がなされている。

 少なくとも1平方メートル当たり1013名が詰め込まれるほどの人口密度にならないと、このタイプの転倒は発生しないそうだ(ちなみに1平方メートルとは電話ボックスの面積である)。つまり群集雪崩はそれ自体が恐ろしい現象であると同時に、群集雪崩が起きるほどの密集状態もまた、非常に恐ろしいということだ。

 ただ、筆者は長らくこの説明に納得できずにいた。実を言えば、この明石市歩道橋事故の記事の執筆がなかなか進まなかったのもそれが原因である。上記のような簡単な説明では、群集雪崩が起きるメカニズムの説明としては不十分ではないかと考えていたのだ。

 筆者が抱いていた疑問のひとつは、「どうして超過密状態の中で隙間ができるのか」ということだった。

 単純な話で、1平方メートルあたり1013名も詰め込まれた超過密状態では、もはや隙間なんてできないだろう。それなのに、ネットの記事を含め各種メディアでは、群集雪崩は「群集の中でできた隙間に人々が倒れ込む」現象だとばかり説明されている。だからその隙間はどうしてできるんだよ! という話だ。その点についても「人が倒れるから」「しゃがみこんだりするから」と、しれっと解説されたりするのだが、だから1平方メートルあたり1013名も詰め込まれた状態でどうやって倒れたりしゃがみこんだりできるんだよ! と心の中でツッコミを入れるのが常だった。

 例えば、エレベーター内の満員状態は1平方メートル当たり44.5人程度、ラッシュアワーの駅の階段周辺なら5.56人程度、ラッシュアワーの満員電車の状態は66.5人程度だと言われている。それ以上の、想像を絶するような密集状態では、倒れるのもうずくまるのも無理に決まってるではないか。

 筆者のこの疑問が、それなりに解消されたのはつい最近のことである。それは、20221029日に韓国・ソウルの梨泰院(イテウォン)地区で発生した群集事故の解説記事がきっかけだった。

 

2022年のソウルの事故

 梨泰院(イテウォン)地区の群集事故で発生した現象もまた群集雪崩だったとされている。筆者の印象では、群集雪崩の発生メカニズムはこの事故によってより明確になり、メディアでも共有されるようになったように思われる。

 こちらの事故では、8万人の人々が狭い通りでぎゅうぎゅう詰めになったことで158名が死亡、194名が負傷しているが、このケースでも、先述した群集波動現象が起きていたらしいのだ。あの、個人の意志に関係なく群集が東西南北に「揺れ動く」不気味な現象である。

 で、どうやらソウルの事故では、この群集波動現象による揺れ動きで、人々の間に隙間ができてしまったらしい。

 筆者はこの解説を読んでなるほどと思った。それまでは群集雪崩そのものだけに気を取られていたが、高密度状態の群集の中で発生する群集波動現象と、それによって人々の間に隙間ができて発生する群集雪崩がワンセットだと考えればいいわけだ。

 たぶん、このあたりの理屈は、今までも専門家の間ではそれなりに知られていたのではないかと思う。しかし、群集波動現象が起きたからといって必ず群集雪崩などの事故が起きるとは限らないので、一般にはあまり認識されずにいたのだろう。

 また因果関係について言えば、群集波動現象が起きたからといって必ず群集雪崩が起きるとは限らないのと同様に、群集波動現象がなければ群集雪崩も起こらない、というものでもないのだと思う。先に述べた通り、超過密状態の中で隙間ができるという事態が筆者はいまいち想像できずにいる。しかし、群集波動現象が起きなくても超過密状態の中で何らかの理由で隙間ができれば、理論上は群集雪崩も起こりうるに違いない。

 もう少し、この群集波動現象について詳しく見ていこう。

 

「群集雪崩」に至るステップ

 基本的に、群集事故は限られたスペースに許容範囲以上の人数が流入・滞留することで発生する。で、一般的には群集密度がおおむね 1平方メートル当たり8 名程度になると「高密度群集滞留」とされる。

 そしてこの「高密度群集滞留」の状態になると、密度と圧力分布の差異が引き金となって、個人の意思とは無関係に群集波動現象が発生するらしい。

 さらに、この状態のところにさらに人々が流れ込んできて、おおむね1平方メートルあたり10名以上の「超」高密度群集滞留の状態になると、今度は個人と集団による危機回避行動が起きる。1平方メートル当たり8 名と10名でそんなにはっきり分かれるのかとやや不思議だが、この状態になると人々は何とか脱出しようと慌ててパニックを起こすらしいのだ。

 すると、今度はさらに大きな揺れとねじれ現象を伴う複雑な「限界群集波動現象」が発生して、圧迫や窒息、そして悪くすれば群集雪崩などの事故が発生する確率もさらに高まるというわけだ。

 2022年のソウルの事故では、当時の映像がはっきり残っていたことから、1平方メートル当たり10名以上が押し込められる「超」高密度群集滞留の状態が発生していたことが確認できるという。

 やや私見になるが、群集雪崩という現象の捉えどころのなさは、この「確認」できるかどうかという点にも起因するのではないかと筆者は思う。次の項目で、それについて少し述べてみたい。

 

群集雪崩は「観察」が難しい

 筆者が群集雪崩という現象に対して抱いていた大きな疑問のひとつに、「群集雪崩で大惨事になった事例は他にないのか?」ということだった。

 群集雪崩に関する解説文を読むと、あたかも一定の条件が揃えばそういう現象はいつでも起こりうる、といわんばかりにしたり顔で述べられていることが多い。では明石市歩道橋事故以外に、過去の事例で群集雪崩が起きたケースはあるのか? と調べてみると、そんなものは一切存在しないのである。

 これについても筆者は納得できず、一体なんなのかと不思議だった。歴史上、群集雪崩が発生した事例は明石市歩道橋事故だけだったのだろうか?

 しかしそうではない。おそらく、前項で述べた通り、一定の群集密度になれば群集波動現象も群集雪崩も発生しうるし、また歴史上も発生したことがあったのかも知れない。ただそれは、実際に起きたのかどうかを判断するのがとても難しいのだ。

 どういうことかというと、1平方メートル当たり10名以上の密集状態の中にいてパニック状態になっている人が、急に人が倒れ込んできたからといって、それが群集雪崩なのかそれとも将棋倒しなのかをいちいち判定するのは無理な話だろう。

 将棋倒しも、密集状態の中では容易に起こりうる。転倒に巻き込まれた人の証言や、転倒後の状況からだけでは、当時本当に群集雪崩が起きたのかどうかを確認するのは困難なのである。

 また、ぎゅうぎゅう詰めのパニック状態の中で転倒に巻き込まれた人にとっては、自分が巻き込まれたのが群集雪崩なのか将棋倒しなのかなどどうでもいい問題に違いない。当人にとって大切なのは、早くその場から脱出することだ。

 よって、群集事故が起きたとして、その時に起きたのが群集雪崩なのか否かを後から判定するのであれば、映像による確認が必須となる。例えば防犯カメラに映った映像や、スマホによる動画などが考えられるだろう。

 2022(令和4)年は、防犯カメラも、またスマホによる動画撮影も当たり前のような時代なので、ソウルの事故はおそらくきちんと記録が残ったのである。だから群集波動現象や群集雪崩の発生について、かなり信憑性が持てる形で確認できたのではないか。

 では明石市歩道橋事故はどうだったのか。当時はまだ街のそこここに防犯カメラが設置されているような時代ではなかったし、スマホなど影も形もなく、携帯電話がやっと一般に普及し始めたばかり、カメラ付携帯もあったかなかったか、くらいの時代だったと記憶している。だからやはり、ソウルの事故ほどには、100%群集雪崩だったとは断言できないのではないかと思う。

 今では明石市歩道橋事故は群集雪崩の事例の代表格みたいにされているが、実際には事故調査報告書でも「群集雪崩が起きたと思われる」という書き方になっているし、群集事故のバイブルである『群集安全工学』でも、明石市歩道橋事故に関する文章の中で、群集雪崩という言葉は一度も使われていない。たぶん歩道橋の事故が群集雪崩だったのかどうかは、専門家も100%断言はできないのだ。

 念のため書いておくと、筆者は「朝霧歩道橋で発生したのは群集雪崩ではない」というおかしな説を唱えたいわけではない。ただ、当時本当に何が起きたのかは確認するのが困難だし、完全に確認することができない以上、100%の断言もできないし、また、証拠もなしに断言するわけにはいかないということだ。

 もしかすると、ホディンカの惨劇(1896年)や弥彦神社事故(195556年)や蘭桂坊事故(1993年)、竹下通り事故(2010年)やラブパレード事故(2010年)でも、群集雪崩とまではいかなくても群集波動現象くらいは起きていたのかも知れない。しかし、それは誰にも分からないのである(なお、弥彦神社事故でも陥没型の倒れ込みが発生していたとする資料もある)。

 そう考えると、見えるようで見えない、分かるようで分からない群集雪崩という現象はどこかオバケというか妖怪じみており、ある種の「怪異」なのかも知れないと思えてくる。

 

なぜ明石市の事故は「群集雪崩」と判定されたのか

 では見方を変えて、なぜ明石市歩道橋事故では群集雪崩が発生したと「ほぼ」断言できるのかというと、これは群集雪崩の発生条件がしっかり揃っていたからではないだろうか。

 ここまでも再三述べたが、群集波動現象および群集雪崩が発生する条件として「1平方メートルあたり10名以上が押し込まれている状態」というのがある。

 ある程度の広さが確保されている場所や、屋外などの開放された空間では、これほどの群集密度になることは稀だろう。となると、群集波動現象及び群集雪崩は、狭くて密閉された場所の方が起こりやすいと言える。

 朝霧歩道橋は、そういう条件が揃っていた。風よけ・落下防止のための壁と屋根があったため、極めてまれな「1平方メートルあたり10名以上が押し込まれている状態」が生まれてしまったのだ。なお、2022年のソウルの事故や、他にも群集波動現象の発生が確認されているドイツのラブパレード事故も、同じように狭い閉鎖空間で発生している。

 一応書き添えておくと、群集雪崩が発生しやすくなる条件としては、この他にも「雑踏整理や警備態勢の不備」「その場から脱出しようとする人々の興奮・パニック状態」が挙げられる。

 朝霧歩道橋の場合、風よけ・落下防止の壁がなければ、群集波動現象および群集雪崩も発生しなかったかも知れないし、もっと早く外部に助けを求めることができたかも知れない。この壁の存在については、その後も、大惨事となった要因のひとつとして挙げられている。

 

「失敗」ではなく「成功体験」となった前例

 さて、歩道橋事故の話に戻ろう。この事故を予見することは不可能だったのだろうか?

 決してそんなことはなかった。実は朝霧歩道橋では、半年前にも同じような事態が発生していたのである。

 それは2000(平成12)年から2001(平成13)年にかけて大蔵海岸で行われた、年末年始カウントダウンイベントでのことだった。夏まつりと同様に、この時も花火が打ち上げられたのだが、やっぱり同じような経緯で歩道橋の上に約3000人が滞留して身動きできなくなったのである。

 この時も、朝霧駅から歩道橋までの間に長蛇の列ができた。人々は階段でバランスを崩し、親子ははぐれ、子供は泣き叫ぶという異常な状態だったという。一平方メートルあたり七人くらいに達していたとも推定され、事故発生寸前の危険な状態だったのである。

 この時に警察・警備会社・市の担当者は何をしていたのか。とりあえず、混雑がひどくなった段階で、それ以上の人々の流入を阻止するためにロープを張る程度の措置は取っていたようだ。しかしこれは焼け石に水だったという。

 このイベントでも、警備員が突き飛ばされたり、体当たりを受けたり、胸倉を掴まれたりするなどの行為を受けたというから、このような興奮状態になった群集を途中で思い付きのようにロープで規制するのは難しかったことだろう。

 現に、夏祭りの打ち合わせでも「歩道橋の上にロープを張って通行を規制した方がいいのでは?」という案が出ているが、かえって危険だ(何が危険なのかはよく分からない)ということで却下されている。

 というわけで、カウントダウンイベントでもどうやら効果的な措置は特に行われなかったようだ。アナウンスも誘導もなく、また歩道橋内が渋滞しても、その状態を解消するために歩道橋に入ることもできないという状態だったのである。

  この時も300人以上の警察官が出動していたが、歩道橋の上には警察官は一人もいなかったという。また、市の職員は「何かあれば警備員から連絡があるだろう」と考えており、歩道橋の混雑状況については気に留めていなかったという。

 ただ、朝霧駅から流入してくる人々に「もうイベントは終わりました」と呼びかけてはいる。恐ろしいのは、警察や警備会社が、これをひとつの成功体験として考えていたことだ。歩道橋の上が混雑しても、こうすれば大事故が起きることはないし、実際カウントダウンイベントでは我々はそうやって事故を防いだのだ、朝霧歩道橋は決して危険な場所ではない……という都合のいい理解が、頭の中に刷り込まれてしまったのである。

 

警察と警備会社の協議はどのように行われたか

 事故の経緯を見ても分かる通り、この事故は明らかに警備体制に問題があった。例えば、歩道橋の上に適切に警官が配備されていたり、警備会社による誘導がうまく行われていれば、死者が出るほどの大惨事は防げたかも知れない。

 よって、事故後は、「警察と警備会社はきちんと雑踏整理に関する打ち合わせをしていたのか?」が問題となった。

 この花火大会は実質的に自治体が主催するイベントである。また、事故が起きた朝霧歩道橋は明石市の市道だった。よって警察には安全確保の責任があったわけで、市の商工観光課と警察署、そして警備会社の三社は、まつり開催に先駆けて一応の打ち合わせを行っている。その中で警備計画も検討・作成されていた。では、その内容は一体どんなものだったのか。

 以下では、その打ち合わせ内容について、分かりやすくなるように「エア対話」でまとめてみた。もちろん本当にそのような対話がなされたわけではないので、その点に注意しながら読んで頂ければと思う。

 

エア対話篇①

 2001(平成13)年4月頃の話である。なお、「市」は明石市、「警察」は明石市警察署のことだ。

市「次の夏祭りですが、警備体制はどうしましょう」

警察「今まではどうやってたの?」

市「うちの方で地元の警備会社と委託契約を結んでました。あとは警察にもお願いしてました」

警察「そうでしたね。では、次の夏祭りの全体的な警備計画書はありますか?」

市「いえ、作ってないです」

警察「作ってないの? それじゃいかん。今回は今までよりも規模を拡大して、明石公園と大蔵海岸の二か所で盛大に行うんでしょう。警備体制もしっかり整えないと」

市「それもそうですね。じゃあ株式会社ニシカンを元請けとして、警備を依頼しますか」

警察「ニシカンですか。あそこは評判がいいですしね」

市「はい。イベント警備の経験も豊富だし、評判もいいんですよ」

警察「じゃあニシカンにしましょう」

 

 そして46月頃にかけて、ニシカンに依頼することに決まった。その後、市・警察・警備会社を交えた打ち合わせが進められていく。以下、「ニシ」はニシカンあるいはニシカンの下請けの警備会社のことだと思っていただきたい。

ニシ「じゃあ、今回の夏祭りは、うちを中心とした自主警備体制を敷くことにしますね。指揮系統を徹底します」

警察「よろしく。ところで、警備業務の請負契約書はどうしましょうか?」

ニシ「別にいらないでしょう」

警察「そうですね。じゃあ、警備計画書ができたら提出して下さい」

ニシ「はい」

 

 そして7月。

警察「ニシカンさん、警備計画書はまだですか?」

ニシ「あ、すいません今出します。はいどうぞ」

警察「ありがとう。あれ? なんかこの警備計画書、前にどこかで見たような……」

ニシ「気のせいでしょう」

警察「これ、まさか去年の大晦日のカウントダウンイベントの計画書の丸写しじゃないでしょうね?」

ニシ「違いますよ。まさか、丸写しなんて……」

警察「そうですか」

ニシ「危ない危ない。実際にはほとんど丸写しなんだよな」

警察「ん? 何か言いましたか」

ニシ「いえ何も。まあ、カウントダウンイベントの話は別にいいでしょう。あの時は大混雑で苦労しました。思い出したくもない」

警察「そうですね。あの時のことを改めて話し合わなくても、まあ何とかなるでしょう」

ニシ「ところで、明石署の方でも、雑踏警備の計画は立てているんですか」

警察「もちろん。雑踏警備については、兵庫県警察本部の『雑踏警備実施要領について』という例規があります」

ニシ「例規って何ですか?」

警察「法令を解釈する際などに、先例とする規則のことですね。あと、慣例に基づいてできた規則」

ニシ「つまりはルールブックということですか」

警察「そうそう。この例規にも、群集は統制を欠き、群衆心理に影響されやすく、ささいな原因から事故に発展することおそれがあると書いてあるんです」

ニシ「やっぱりそうなんですね。じゃあ、そこでの警察の役割は……」

警察「それもちゃんと書いてありますよ。まず、基本的にこういうイベントでは、主催者側の自主警備が原則となります」

ニシ「自主警備ですか。つまり原則的に、雑踏整理は警察が行うのではなく、イベントの主催者がやるものだと考えてるわけですね」

警察「そうですそうです。ですから今回も、明石市が委託したニシカンさんや下請けの警備会社さんに、しっかりやってほしいわけです」

ニシ「じゃあ、警察の役割は?」

警察「それも例規に書いてあります。私たち警察は、主催者側に指導と助言を行います。で、彼らが対処できない犯罪の予防検挙や交通規制、その他の事故防止のための必要措置をとることになっているんです。その具体的な方法も載ってるんですよ」

ニシ「なるほど。警察は、主催者のやることに直接タッチはしないけど、それ以外のことをやるということですね。サポートに徹するという感じですか?」

警察「そう考えていただければ。ですので、朝霧歩道橋の警備はそちらにお任せしますよ」

ニシ「はあ……」

 

エア対話篇②

警察「私たち警察が一番問題だと考えているのは、雑踏対策じゃないんです」

ニシ「そうなんですか? じゃあ一体」

警察「お祭りのようなイベントで私たちが最も危惧しているのは、暴走族とケンカです。うちの署長も、特に警察の仕事は暴走族対策であると明言しているほどで」

ニシ「そんなにひどいんですか?」

警察「ええ。兵庫県のイベントでは暴走族の紛争が続発しているんです。2000年の各種イベントでも、若い人や暴走族がらみの衝突や紛争事件が起きて、私たちは厳戒態勢を敷きました。よって今回の夏祭りでも、警備要員として292名を配備する予定です」

ニシ「それを全部、暴走族対策にまわすと?」

警察「さすがに全部ではないですけどね。雑踏対策でも36人を配備します」

ニシ「警官36名と、それに私たち警備会社で雑踏整理をするわけですね」

警察「そうですね。とにかくさっき言った通り、お祭りとなるとケンカも多いので、そっちも警戒しなければなりません。そこで、私たちがしっかり協議したいのは『夜店をどこに出すか』ということなんです」

ニシ「お祭りの夜店ですか? なんでまた」

警察「花火が上がって夜店が出るというだけで、興奮した若い人たちが衝突して紛争が起きるんですよ。だから、夜店は警察が警備しやすい場所に設置するよう決めたいところです」

ニシ「じゃあ、どうしましょうか」

警察「そうですね。朝霧歩道橋を下りたところにある市道の両側に、180店を設置させましょう」

ニシ「しかし、そうすると歩道橋から下りてきた人たちが夜店の前で立ち止まってしまって、歩道橋で渋滞が発生しませんか?」

警察「まあ、なんとかなるでしょう」

ニシ「はあ……」

警察「心配でしたら、こうしましょう、。歩道橋周辺には警備員3名を配備します。そして歩道橋の人数が1800人を超えたら通行をストップさせて、歩道橋から約800メートルの迂回路へと誘導するんです」

ニシ「うまくいきますかねえ」

警察「まあ、なんとかなるでしょう。ニシカンさんは経験豊富な警備会社ですからね。そちらに任せれば、行き当たりばったりでも乗り切れますって」

ニシ「そこまで言うなら……」

 

警察と警備会社の責任

 前項までの対話篇の要点をまとめると、つまり警察はもともと雑踏整理を重視していなかったし、警備会社も「なあなあ」で会場の警備を請け負っていたということだ。

 これで大惨事が起きてしまったのだから、警察と警備会社が責められるのは仕方のないことだった。後述するが、この事故の裁判では当時の警察官たちが有罪判決を受けている。

 とはいえ、警察が暴走族やケンカ対策に重きを置いていたのはそれなりに妥当な理由があった。また警備会社も、他の悪条件が重ならなければ、いつも通りの警備体制を敷いていつも通りに警備の仕事を果たしていたことだろう。

 大惨事が起きてしまった結果から遡って「誰に責任があるのか」と問われれば、彼らに追及の矛先が向くのは致し方なかったとしても、前項までの対話篇の中で協議・決定した内容そのものが、最初の段階でそもそもどれくらい誤っていたと言えるのか、それは簡単に決めつけられるものでもないと思う。案外、イベントが行われる際の、警察と警備会社のやり取りなんてどこもあんなものだったのかも知れない(そして、明石市歩道橋事故をきっかけに、そういう傾向も変わっていったのかも知れない)。

 また、この事故の内容をまとめた『明石市夏まつり事故調査報告書』を読むと、とにかく警備の不備を責め立てる言葉遣いが強烈である。公平さを欠いていると言ってもいいだろう。

 この事故調査報告書は、当イベントの主催者だった明石市による「反省文」的なものでもあると思うので、そういう言葉遣いになるのも仕方ないのかも知れない。なにせ、当時どれくらい不備があったと言えるのか分からないような、消防体制のあり方や医療機関との事前協議についても、いわば重箱の隅をつつくような感じで、打ち合わせが徹底していなかった点をわざわざあげつらってひたすら「反省」している。

 しかし、事故ーーそれも複数の死傷者が出るような大事故ーーが起きた場合、人は「無理にでも」責任追及の対象を探し出そうとするものだ。

 一方で、大きな事故ほどさまざまな要因が結びついて発生することが多いので、どの要因が決定的なものだったのかを判定するのは極めて難しい。だから追及する対象を探す際は、どこかで無理がかかりがちである。

 事故が発生した際、責任追及をするのがいけないと言いたいのではない。責任追及においては、原理的にえてしてそうした「無理」がかかりがちなのである。その点を忘れていたずらに責任追及に走るのはバッシングと大差ないし、その意味では当時の警察や警備会社にも同情したくなる点は多々ある。

 特に、警察のような権限を持たない警備会社の人々が、イベント当日に体験した苦難のことを考えればなおさらだ。

 

警備員の苦悩

 民間の警備会社は、警察のような権限を持たない。よって事故が起きた夏まつりイベントで、現場の警備員たちはかなり苦労していたようだ。

 先述の事故の経過を読んで頂ければ分かるが、まず警備員たちは、事故発生するかなり前から、少なくとも前後四回は歩道橋への人の進入を規制することを提案している。しかしこれらは警察によって却下された。
 また、イベント来場者からもひどい扱いを受けている。ある警備員は「子どもが窒息する。助けてくれ」と頼まれたが、その警備員自身も身動きができないほどの混雑状態だった。すると今度は、周りの客から「警備員なんだから何とかしろ」と罵声を浴びせられ、殴られて負傷したりしたという。やってられない。他にも、観客に突き飛ばされて身の危険を感じた警備員もいた。

 さらに花火が終わる頃、ようやく警察の許可を得て駅側で入場規制を行なったはいいものの、今度は観客から「夜店が閉まる」などの罵声を浴びせられている。

 人を取り締まる権限を持つ警官なら、有効な規制が可能だったかも知れない。民間の警備会社の会社員だけでは、人々の入場を強制的にストップさせるような規制はできないのである。彼らは命令もできないし強制力も持たない。できるのは、人々に対して「お願い」することだけなのだ。

 

隠蔽工作

 と、ここまでは警察や警備会社の肩を持つような書き方をしたが、彼らも明らかな悪手を打っている。事故発生後、事実の隠蔽と、虚偽の証言による責任逃れを図っているのだ。

 まず、先の対話篇で『雑踏警備実施要領』というルールブックがあることは説明したが、歩道橋での事故が発生した直後、兵庫県警察本部は「雑踏警備実施は主催者側の自主警備を原則とする」うんぬんの条文を削除している。

 つまり、イベントの警備は警察の責任ではなく原則的に主催者側の責任だ、という記述は、警察にとって都合のいい責任逃れだと責められるのを避けようとしたのだろう。実際この文言があったことで、警察は市と警備会社に雑踏整理を丸投げする形になった。結果として、歩道橋には警察官が一人もいないという状況になったのだ。

 また警備会社の支社長は、虚偽の事案報告書を作成している。警備会社の側も、警備体制の手薄さを指摘されることを恐れていたのだ。

 さらに対話篇で登場した警備会社は、事故直後に新聞に対して虚偽の証言をしている。有名な「茶髪の青年」である。

「茶髪の青年が無理に押したので群集雪崩が発生した」

「茶髪の青年たちが歩道橋の天井によじ登って騒ぎ、不安を煽り立てた」

 と証言して、責任逃れを図ろうとしたのだ。

 マスメディアもまた、この証言を真に受けて報道したが、後にこれはウソだったことが判明している。「茶髪の青年」たちは確かに実在しており、事故直前に歩道橋の屋根に上ったのは本当のことだが、それは歩道橋での惨事を周囲に知らせるためだった。彼らはプラスチック壁を破壊して屋根に登り、それ以上の群集の流入を阻止しようとしたのだ。また、119番通報も行っている。

 つまり、警察も警備会社も、事故が発生した直後から、自分たちの不手際が原因だったことを認識していたのである。それに気付いた上で隠蔽工作を行ったのだ。これについては同情の余地はないと言えるだろう。

 

現代の怪異

 明石市歩道橋事故の、責任者たちによる隠蔽工作を見ていると思い出すのが、既に当研究室で既にご紹介したラブパレード事故(2010年)やヒルズボロの悲劇(1989年)でも、責任者たちが言い逃れ・事実の隠蔽・改竄などを行っていることである。どうも群集事故というのは、似たような経緯をたどりがちらしい。

 これはなぜだろうと考えてみると、群集あるいは群集事故自体が、捉えどころのないオバケのようなものだからなのかも知れない。

 おかしなもので、人はなぜか大勢集まって群をなすととたんに自律性・自立性や理性的思考を失い、暴力的になって興奮する。そして無責任になる。群集の中で、そうして人間らしさを失ってしまった人間は、ある種のオバケというかモンスターのようなものと言ってもいいだろう。

 特に近代以降の群集(群衆)は、19世紀以降のヨーロッパで、歴史上これまで存在しなかった驚くべきものとして社会科学的に研究されるようになった。しかし何しろ相手はモンスターなのでなかなか捉え処がない。社会科学よりも文学の方が、いち早くその本質を掴んでいたと述べる研究者もいるくらいである。

 そんなモンスターに、いったい誰がどうやって責任を取るというのだろう? まず、責任の所在が分かりにくい。そうなると、当時どのように責任を果たすべきだったのかも分かりにくい。なんとか誰かに責任を取らせようと追及すれば、先述の通りどこかに無理がかかる。これでは、大事故であればあるほど、群集事故の責任者たちが必死に言い逃れや隠蔽工作をしたくなるのも分かる気がする。

 このように考えていくと、先に、群集波動現象や群集雪崩という現象がある種の「現代の怪異」だとする見方(私見)とも結びついてくる。

 何が言いたいかというと、現代に生きる我々は「群集(群衆)」というモンスターと共にあるということである。今は群集に対する理解も深まり、雑踏整備の技術も進化している。DJポリスがそのいい例だ。しかし油断してはいけない、例えばSNSでバッシングを行う人々もまた、モンスターとしての群集(群衆)の一形態だろう。

 我々はいわば「群集性」とでも呼ぶべきものを、心の中に秘めているのである。それはイベント時の興奮だけではなく、SNS上の話題に対する正義感や義憤、処罰感情、政治的倫理感によっても容易に呼び覚まされるのだ。

 集団の中に埋没して匿名の存在となった時、我々は簡単にモンスターと化してしまうのである。仮にその時、自分は「正義」の側に立っているという確信を持てていたとしても、実際には「群集性」に駆られたモンスターでしかないかも知れないのだ。

 以前、大阪造幣局「通り抜け」での将棋倒し事故(1967年)の項目でも書いたが、安全に日常を過ごしたいのなら、SNSのバッシング集団などを含む「人混み」にはできるだけ近付かない方がいいのである。そういう群集の中に身を置くとき、人間は理解の及ばないオバケに憑り付かれ、モンスターと化してしまうのだ。

 

裁判と法改正

 明石市歩道橋事故の裁判は、決着がつくまで、紆余曲折を経て長い時間がかかった。刑事訴訟の結論だけを書くと、以下の通りである。

・警察官1名……禁固26か月(実刑)

・警備員1名……禁固26か月(実刑)

・市職員3名……禁固26か月(執行猶予5年)

・兵庫県警署長(当時)……検察審査会による訴追が行われる中、2007(平成19)年に死亡

・兵庫県警副所長(当時)……検察審査会による強制起訴ののち、事件の審理を行わずに訴訟を打ち切り(免訴)。

 また民事訴訟では、9遺族が明石市・兵庫県警察・警備会社から3者に計約56800万円の損害賠償を行うことが確定している。

 そして、遺族らでつくる「明石歩道橋犠牲者の会」は2003(令和5)年621日、書面で解散を発表。会結成の目的だった損害賠償請求や刑事責任を問う集団訴訟が終わったことから、423日付で解散することになったのだった。

 法律面でも、この事故は大きな影響をもたらしている。2005(平成17)年11月には「警備業法」「国家公安委員会規則」が改正された。そして、これまでの「常駐警備、交通誘導警備等警備業務検定」に「雑踏警備」が新設されている。

 

それから…

 「明石市民夏まつり」は、翌年の2002(平成14)年から二年間中止となり、2004(平成16)年から再開。ただし場所は移動し、花火大会は開催されなくなった。

 明石市は、事故発生直後の82日には事故調査委員会を設置し、その後、事故調査報告書を完成させた。PDF形式だが、これは今でもネット上で手軽に観ることができる。

 火災や鉄道事故と比べて注目される機会が少ない群集事故という事故類型が、具体的にはどういうものなのかを知るための第一級の資料と言えるだろう。強いて難点を挙げるとしたら、分量が多いことと、先述したような「反省文」的な論調と言葉遣いが少し気になるくらいか。

 

【参考資料】
神戸大学 都市安全研究センター・大学院工学研究科建築学専攻 安全都市づくり研究室
明石市ホームページ「明石市夏まつり事故調査報告書」
朝霧駅 - 海の見える駅
NEVERまとめ【721日】憶えていますか。明石花火大会歩道橋事故を振り返る
NHK放送史「明石 花火大会で歩道橋事故」
失敗百選 ~明石の歩道橋上の圧死(2001)
イベントにおける群集管理の重要性について -韓国ソウルでの雑踏事故を教訓に-
MBSニュース
雑踏事故に至る高密度群集滞留下での群集波動現象に関する研究
雑踏事故分析による会場適正に関する研究~高密度群集滞留の群集現象と拡大プロセス分析を通じて~
東洋経済オンライン
読売新聞オンライン
共同通信


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◆ホワイト・ホース・ファイナル(1923年・イギリス)

  1923(大正12)年にイギリスで起きた「ホワイト・ホース・ファイナル」と呼ばれる出来事は、かなり大規模な群集事故だった。負傷者もかなりの数に上っている。だが死者は出ておらず、当研究室で取り上げる事例の中では比較的穏やかなものである。

 むしろこの事例では、大惨事に至る寸前で混乱が鎮められている。今でも語り継がれて伝説化しているのは、この群集の鎮静化についてなのである。

 よって、ホワイト・ホース・ファイナルは「群集事故」の事例というよりも「群集整理」あるいは「雑踏整理」の事例と呼ぶべきかも知れない。

    ★

 1923(大正12)年428日のことである。この日、ロンドンのブレント区ウェンブリーにあるサッカースタジアム「ウェンブリー・スタジアム」では、FAカップの決勝戦が行われる予定だった。

 少し解説しておくと、もともとサッカーとラグビーはイングランド発祥のスポーツである。同じくロンドンにあるトゥイッケナム・スタジアムが現在は「ラグビーの聖地」と呼ばれるのに対し、ウェンブリー・スタジアムは「サッカーの聖地」とされている。

 そして、この1923428日というのは、実はウェンブリー・スタジアムの竣工日でもあった。つまりこの日のFAカップ決勝戦というのは、同スタジアムにおける記念すべき初試合となるわけだ。

 しかし問題もあった。第二次世界大戦前、イングランドの人々のサッカー熱はかなりのもので、スタジアムの収容人数を大幅に上回る観客が押し寄ることもしばしばだったという。

 時に、観客たちは入場制限もなんのそのと言わんばかりに入場口を破壊して突入したり、柵を乗り越えたり、スタジアムの屋根に上ったりして観戦したそうだ。運営側もさぞ頭を痛めたことだろう。

 ただこの時代は、そんな観客の安全について関心が寄せられることはほとんどなかった。考えてみれば無理もない話で、あんがい、暴徒同然の観客がどうなろうと知ったこっちゃないというのが関係者の本音だったのではなかろうか。

 さて、ウェンブリー・スタジアムの収容人数は、立ち見も含めて125千人。これは当時としては前例のない収容人数だった。ところが当日はこれに2030万人の観客が押し寄せたという(正確な観客数は不明)。

 当日、入場ゲートは予定通り午前11時半に開かれた。だが、午後1時までに膨大な数の観客が殺到。これを受けて、運営側は午後145分にゲートを閉鎖することに決めた。

 結果、ゲート前にはスタジアムから閉め出された群集が溢れかえった。彼らを鎮めるために地元の警察官が出動するも、人数が多すぎてとても手に負えない。午後215分には、ついに一部の観客が柵を上るか破るかして強行入場する事態になった。

 今では考えられないが、彼らはなんとピッチ(グラウンド)にまで押し寄せ、ゴール近くまでひしめき合っていたという。完全に邪魔である。お前らは試合を観に来たのか妨害しに来たのか、と突っ込みたくなるのは筆者だけではないだろう。

 あまりの混乱のため、試合を中止することも検討されたという。だが、かえって群集が騒ぐかもしれないので中止案は却下された。

 これだけ人がひしめき合って怪我人が出ない方が奇跡である。結果として一千人以上の負傷者が出た。当時の観客の一人は「血みどろの修羅場だった」と述べている。

 で、この事故の何が「ホワイト・ホース・ファイナル」なのかというと、現場に駆けつけて雑踏整理を行ったジョージ・スコーリーという警官が見事に群集を落ち着かせたのだ。いい仕事してますね~。彼のこの功績が語り継がれることになったのである。

 この日、警部補のジョージは非番だった。しかしウェンブリー・スタジアムの常軌を逸した混雑を鎮めるために駆り出されたのだった。現場に駆け付けた彼は白馬「ビリー号」に乗ってビッチ内をカッポカッポと進み、威厳に満ちた態度で少しずつゆっくり観客を落ち着かせ、誘導したのである。

 これによりピッチのスペースが確保できて、予定されていた試合は45分遅れのキックオフとなった。

 言うまでもないが、ホワイト・ホースとは白馬のことである。この見事な雑踏整理が語り継がれ、この試合は「ホワイト・ホース・ファイナル」と呼ばれるようになった。

 もっとも、怪我人が出ているので手放しで称賛できるものでもないのだが、このジョージ警部補がいなければもっとひどい惨事になっていたかも知れない。現に、ヨーロッパではサッカー会場での群集事故がしょっちゅう起きている。

 ところで、筆者の拙い英語力で英語版のウィキペディアを読んでみると、どうやら何から何までジョージ警部補のお手柄というわけでもないらしい。本当は彼が到着する前から、群集は少し落ち着き始めていたようなのだ。

 きっかけは、午後245分に国王ジョージ五世が到着したことだった。また、これにあわせて楽団による「ゴッド・セイブ・ザ・キング」の演奏が始まると、群集はみんなで歌ったという。これが人々の血圧を下げる効果をもたらしたらしく、彼らは当局による雑踏整理に協力し始めたのだった。

 また、選手たちも観客に対してタッチラインの外へ下がるよう呼びかけている。結局のところ、大惨事を防ぐことができたのはジョージ警部補という個人の偉業だったわけではなく、関係者の努力の賜物だったのである。

 ジョージ警部補とビリー号の功績が伝説化して独り歩きしてしまったのは、身も蓋もない言い方をすれば「その方がドラマチックで面白いから」だろう。

 それに白馬はカッコいい。サッカーの聖地であるウェンブリー・スタジアムの初試合が台無しになりかけたところで、颯爽と白馬に乗った英雄が現れて事態を鎮静化する――。これほど素敵なストーリーはちょっとない。

 ちなみにこれは裏話なのだが、この「白馬」ビリー号は実際には灰色だったという。ただ白黒のニュース映像では白色で映ってしまうため、「ホワイト・ホース」の強烈なイメージが出来上がったということらしい。

   ★

 大衆論・群衆論の名著である『群集心理』を著したギュスターヴ・ル・ボンによると、群集をコントロールするポイントは以下の三つである。

①はっきりと、一方的に、分かりやすいメッセージを出す
②メッセージを何度も繰り返し、人々の心に刻ませる
③感情的な空気を広げていく

 そういえば本邦でも近年、群集事故が危惧される現場では「DJポリス」が出動して巧みな話術で人々を誘導するようになった。

 DJポリスは、例えばスポーツの試合では「サポーターのもチームの一員だ」というメッセージを繰り返して、集まった観客に責任ある行動を取るよう促すという。巧みな話術でメッセージを伝えて群集をコントロールするというやり方は、まさにル・ボンの述べたツボを押さえているといえるだろう。

 ホワイト・ホース・ファイナルで雑踏整理が成功したのも、まさにこうしたポイントを押さえていたからなのかも知れない。

 エスコートされて会場に到着した国王の姿や、カッコいい白馬に乗った警官の姿はきっと威厳に満ちていたことだろう。人々を心服させる威厳に満ちた姿、そして皆で国家斉唱。これらは、DJポリスの巧みな話芸と同じように、ヒートアップした群集の狂熱をひとまず鎮める効果があったに違いない。

 そういえば、どれくらい的確な喩えかは分からないが、幼児がワガママを言い始めたりダダをこね始めたりした時も、ちょっと別の方向に意識を向けさせるだけで面白いくらいにクールダウンすることがある。

 これは、子育て経験者なら一度は経験したことがあるだろう。理不尽なワガママに対して「いけません」などと真正面から否定するよりも、テレビを見せて「ほら面白いのやってるよ」と言ってみたり、「そうだ、美味しいの食べに行こうか!」などと、別の方向に気持ちを誘導した方が効果的なこともある。

 何のことはない、群集とは眠くなった幼児のようなものなの……かも知れない。

 と、こんなふうに昔々のイギリスでの出来事とDJポリス、それに眠くなった幼児のことをつらつらと連想してつなぎ合わせてみると、「人(群集)の心理は古今東西でそんなに大きな違いがないんだな」と感慨深くなる。

 群集をコントロールする手段がいまだ確立されていない1900年代初頭、たまたまとはいえ群集心理のツボを押さえ、大惨事を防いだ奇跡的な出来事。それがホワイト・ホース・ファイナルだったのだ。

 もしかすると、群集事故の歴史について知らない人は「奇跡だなんて何を大げさな」と感じるかも知れない。

 しかし、当研究室でご紹介している数多くの事故事例を読んで頂ければ、このホワイト・ホース・ファイナルがいかに稀有で貴重な成功事例であるかが分かるだろう。

 そして、ジョージ警部補とビリー号の系譜を継ぐ日本のDJポリスという試みがどれほど意義あるものなのか、きっと納得して頂けると思う。

 おそるべき群集事故と、苦難に満ちた雑踏整理の歴史をとくとご覧あれ。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
戸田整形外科リウマチ科クリニックホームページ
グロウマインド


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